神奈川ビジネスUp To Date
ゲスト
馬車道商店街協同組合
理事長 六川勝仁さん
誕生から150年を迎える「馬車道」を特集。横浜開港当時、居留地や日本人街をつなぐ街路として、馬車が行き交い、金融の中心を担った馬車道。1970年代以降は「馬車道まちづくり協定書」を策定して意欲的な街づくりに取り組みました。馬車道商店街協同組合の六川勝仁理事長に、商店街が辿った歴史と、独自のアイデンティティ、そして今後への期待を伺います。
内田
馬車道が生まれて150年ということですけども、これはどういう「道」なのですか?
六川
馬車道は1867年、慶応3年に外国人の居留地から日本人の街を結ぶためにできた計画道路なんですね。開港当時のメインストリートだったわけですけれども、それが故に、ここからいろいろなものが発祥していまして、ご存知だと思うのですけれど、例えばアイスクリームだとか、街路樹、写真、それからガス灯、新聞、いろいろなものがここから発祥しています。
内田
外国から入ってくるものは全て、ある意味、馬車道を通ったといっても過言ではない。
六川
馬車が行き交っていたわけで、道幅も実は60フィートなんです。
内田
フィートなんですね?
六川
はい、18メートルですけども。
内田
馬車が往復できたということ。
六川
当時のヨーロッパの街並みというか、道幅を参考にして作ったという風に聞いておりますけども。
内田
そこから「馬車道商店街」というものが生まれていったということですけども、これは何時ぐらいから商店街という形になってきたのですか?
六川
馬車道は、その非常に繫栄した時代から、関東大震災、それから第二次世界大戦を経験して、あとは(米軍の)接収解除ですね。それで馬車道の街づくりに取り組んだのは昭和48年からですね。
内田
明治の開港から戦後ぐらいの間にいろいろな紆余曲折があった。一時期、焼け野原にもなったと。
六川
そうですね。それで開港当時の賑わいを再現したいということも含めて、私の父が先代の理事長で、街づくりに取り組んだわけですけれども。
内田
馬車道商店街というのは、この神奈川、横浜の中での存在感、アイデンティティ、他とはここが違うというようなものは、どういうものがありますか?
六川
歴史とか文化が非常に豊かですから、それを活かした街づくりをやっておりまして、よく「オールド・タウン」と言いますけれども、オールド・タウンの魅力を活かした街づくりを心がけています。それは他の町にはない、馬車道独特のアイデンティティだと思っています。
内田
歴史があるということ、オールド・タウンを活かすという部分を、目に見えて「こういうところがある」というのは、例えばどういうものがありますか?
六川
例えば、歴史的な建造物がいっぱいあります。最近、建て壊すという傾向が多いのですけども、馬車道はできるだけ残していきたいということに取り組んでいます。いくつかの例があるのですけれども、今、東京芸大の映像研究科が出ている旧・富士銀行。これもそのまま残して校舎として使われていますし、旧・日本火災ビル、損保ジャパン日本興亜ビルですか、これもやはり外壁を残して建て替えたというビルで、横浜市の歴史的建造物の第1号の認定を受けています。
内田
歴史的建造物を残していくということは、是非やるべきだと思うのですけれど、それを維持していく苦労、外を保ちながら中は快適というのも、すごく工夫が必要だと思うのですけども、ここは?
六川
ちょっと格好良く言うとですね、古い建物を現代にどうやって蘇生させるかということですけれども、それはやはり持ち主の方のご協力も必要ですし、町のしっかりした方針も必要です。損保ジャパン日本興亜ビルは、企業的にはもう老朽化しているので、建て壊したいというのがベースにあった。それを何とかお願いして。
内田
壊さないでくれと?
六川
壊しました。全部壊してですね。
内田
一回壊したんですね。
六川
それで外壁を残しまして、外壁を全部、プラモデルを分解するように分解して、石を全部並べて、使える石をまた再生して、足りないところは新しい石を入れて。
内田
本当にリノベーション。古い部分は外観を残しつつ、でも生まれ変わっている。
六川
かなり時間も掛かったのですけれども、オーナー家がそういう文化的なことについては非常に造詣が深くて、残していこうということで。馬車道のランドマークになるので残して下さいとお願いしたのですね。
内田
そういう意味では馬車道商店街には、宝物がいっぱいある。
六川
例えば関内ホールのような文化施設があり、県立歴史博物館があります。こんな町はないんですよね。だから僕はよく言うんですよ、百貨店を横にしたような町で、オープンエアの町だと。
内田
人を惹きつける、喜ばせる何かを、町として連ならせなければいけないということですね。そこは非常に協力的なのですか?
六川
協力的です。皆さん、やはり馬車道のイメージというか、馬車道のマインドを持っていますので。
内田
それは町の持つパワーなのでしょうね。
六川
やはり積み重ねですね、実績を積み重ねて。当初は横型店舗も2.5メートルのセットバックでよかったのですけども、馬車道は「協定書」というものを作りまして。それは昭和50年に策定したのですけども。
馬車道商店街のブランドを決める「馬車道まちづくり協定書」。まちづくりの理念や景観、業種・業態に至るまで、細かな取り決めがなされています。特に看板、広告物や、建築用途などは街のイメージ、ブランド力に大きな影響を及ぼす内容です。そのノウハウとは。
内田
「協定書」というものが非常に大きいと思うのですけども、どこの商店街もそういうものがきちっと明文化されているかというと、そうではない。そこにご尽力されたということだと思うのですけども、この経緯というのはどういうものだったのですか?
六川
馬車道の協定書というのは全国の町づくりのモデルになった協定書なんです。作った当初は「セットバック」という概念もありませんでした。横浜の元町とか中華街とか伊勢佐木町、みんなこの馬車道商店街の協定書を一つのモデルとして、自分たちの町づくりの協定書をお作りになっています。
内田
馬車道の協定書の中で、特徴的なものいくつか挙げるとしたらどういうところですか?
六川
いろんな町の方が馬車道にリサーチにみえて、皆さん協定書はお持ちだけれども、うまく運用ができていない。「どうして馬車道はそんなにうまく運用ができるのですか?」という質問を受けるのですけども、行政と地元と出店したい方とビルを建てたい方と、この三者がうまく連携しているというか、協定書というのはあくまでも当初は、今はルール認定されて条例になりましたけれども、「紳士協定」なんですね、基本は。だからお願いをして、向こうも納得をして、その積み重ねがずっとあるものですから、「前例はこうだった、じゃあ自分たちもしなければ」という運用がうまくできてきた。いまだにそれは続いています。
内田
ルール作りをしてもそれが形骸化してしまい、どんどんオーナーがチェンジしていくと、そういうものも忘れ去られていってしまって、町の景観なりルールというのが、なし崩しになってしまうケースが多くある。そういうものをしっかりと保っていくポイント、三者が協力するということもあると思うのですけども、一番大切なことというのは何でしょう?
六川
やはり今申し上げた、「お願いをして聞いていただく」ということに尽きると思います。
内田
これは誰がお願いするのですか?六川さんがしっかりと町を見守っているということですか?
六川
町に、町づくりの委員会というのがありまして、当初は企画宣伝委員会というのが担当していたのですけれども、今は「まちづくり委員会」というのがございますので、その担当がお願いをします。いろいろと議論になることもあるのですけれども、馬車道はこういう町だという認識もしていただけて、場合によってはその方がその土地を離して他の方に売ってしまうというようなこともあるのですけれども。
内田
それはそのルールが厳し過ぎて?
六川
厳し過ぎてというか、「全部マンションにしたい」、それはちょっと駄目だとか。
内田
そうですよね。やはり人を引き寄せる、賑わいがある町であるためには、全部が全部、みんなマンションにしてしまったら困りますものね。
六川
「ワンルームマンションは駄目」とか、いくつかルールがあるのですけれども。
内田
銀座の商店街の旦那衆の方たちに取材をしたことがあるのですけれども、「銀座が銀座らしくあるために」ということで彼らもすごく努力をしている。相続の問題で、ずっと土地を持っていたら、どんどん人に貸した方がものすごく良いけれども、やはり自分たちが店舗をしっかり持つということが大事であるということで、それこそ紳士協定であるとか、「みんながチェーン店にしてしまったら銀座は銀座でなくなるだろう」というような意見を交換して、銀座を保つ努力をしていました。
六川
すごく似ています。馬車道のメンバーというか、地元の人たちは、馬車道のまちづくり協定書はバイブルだと思っているのですね。それをしっかり守ろうとしていますし、新たに来る方についても、それは守っていただきたいという努力もしますし。なおかつ、皆さん自分の土地に自分の建物をお持ちなので、思い入れが違うのかなとは思いますけれども。
内田
敢えてお聞きするのですけど、町の景観を保つ、アイデンティティであるとか、そういうものを統一するというのはすごく大事で、それは町の価値になってくると思う一方、ルールで固めていく、地域の人たちが連携していくと、新しい人たちが入ってくるのを、ある意味壁を作るというか排除するということになる。イノベーションというか新陳代謝、そういうものが阻害される要因の一つになるのではないかということですけども、ここはどういう風に思っていますか?
六川
いや、それはウェルカムですよ。外部から来る方はウェルカムです。ただ一応ルールがあるので、それに則ってお願いしています。ですから新しい方ももちろん出てきますし、古いもので固めてしまうということではありません。よく「横浜に三日いると…」という風に言いますけど、非常にオープンマインドな町だと思います。
内田
商店街の歴史の中でいくつかの転機があった。その協定書というところもあると思うのですけども、どういうところで馬車道商店街はフェーズが変わっていくタイミングがあったと思いますか?
六川
馬車道は昭和48年に横浜市の都市型モデル商店街の第1号の認定を受けて、開港当時の復興、賑わいを再現したいということも含めて町づくりに取り組むのですけども、それで協定書を昭和50年に策定をして、もう一回、町づくりをやっているのですけれども、それは二回目の町づくりで、平成7年から平成15年までの間にやるのですね。それで平成15年にみなとみらい線が開通するのですけども。
内田
そのタイミングで、もう一段階変わらなければいけないという思いがあった?
六川
横浜市のライブタウン整備事業という、県と国と市と地元が4分の1ずつ出し合うという形でやる町づくりで、それに取り組むのですけれども、そのときの開発テーマ、コンセプトというのが「オールドタウン馬車道」、「ガーデンストリート馬車道」。大人の本物の町にしましょう、フェイクは駄目、ということで、赤レンガのタイルではなくて赤レンガを英国から輸入して敷き、その時にガス灯に替えました。
内田
それまではガス灯ではなかったのですね?
六川
ガス灯ではなかったんです。「ガス灯もどき」の水銀灯だったのです。それでガスに替えた。旧暦と新暦の差がありますけども、明治5年10月31日が馬車道にガス灯が灯った日なんですね。
毎年10月末に行われる「馬車道まつり」。馬車や人力車の無料試乗会やマルシェ、抽選会などを商店街組合自らが企画運営。多くの賑わいを生み出しています。2020年の横浜市役所移転やタワーマンション、ホテルの建設など、周辺環境が大きく変わろうとしている馬車道商店街の未来の姿とは。
内田
こういうイベントのアイディアというのは六川さんが中心で?
六川
馬車道は「企画会社に全部頼む」というようなことはなくて、全部手作りです。私どもの企画委員会が中心になって考えて。それも積み重ねがあって、「馬車道まつり」が今年で32回目を迎えることができたのですけども、当初は「馬車道というステージに当時の風俗を再現しましょう」ということでスタートしたお祭りで、平成7年には英国から馬車を購入したのですね。
内田
馬車を買ったのですか?馬車道商店街で?すごいですね。
六川
今年の馬車道まつりは馬車が3台走ります。いつもは大体2台ですけども。
内田
賑わいを創出するという意味で、イベントは盛況、成功していると?
六川
そうですね。これから非常に面白い町になると思うのですね、更に。馬車道エリアの近くに北仲エリアというのがありますけれども、そこが今度再開発になります。
内田
どういうことが起こるのですか?
六川
2019年にアパホテルが2300室ぐらいの規模で開業します。2020年には新市役所が開業しますし、その隣に58階建ての高層マンション・ホテルですね。
内田
地域の中で一番背の高い建物になる?
六川
ランドマークタワーが296mですから、その3分の2ぐらい、200mぐらいの高さですね。
内田
町の人口が急激に増えていく。
六川
ホテルの数も増えます。この馬車道エリアの500m圏内でいうと、ホテル数が2020年までに約6000室になる。就業人口も約4万人増えます。
内田
馬車道商店街としては追い風?
六川
追い風というか、そういう方々に馬車道商店街を利用していただけるんじゃないのかなとは思っています。
内田
六川さんが考える理想な町を作り上げるためにはいろいろな課題もあると思う。その中で「もっとこうした方がいい」「横浜にはこういうものが足りない」というものがあったら教えていただきたいのですけども。
六川
都市間の競争の中で「観光」という視点がすごく大事。横浜には観光のコンテンツというのがいっぱいある。各町にそれぞれのアイデンティティがあり、元町はファッションストリート、中華街は食の文化と中国文化、野毛は庶民の文化、伊勢佐木町にもそういう雰囲気があって、馬車道は「歴史と文化」。町がそれぞれのコンテンツを更に膨らませることによって、観光的なコンテンツとして非常に豊かになると思う。そういうものをうまく回遊させていくということも必要だと思います。
内田
観光にもっと力を入れていくということですね。
六川
入れ方はあると思いますけど、やりようはいくらでもある。そういう意味で言うと、馬車道はその接線になると思う。地域の接線もそうだし、やはり開港当時のメインストリートであったように、外国文化をどんどん受け入れた町ですから、そういうオープンマインドな気持ちを忘れないで町づくりをやっていきたいと思っています。
tvkのYouTube公式チャンネルの「見逃し配信」では取材VTRも含め、インタビュー全篇をご覧いただけます。(視聴無料です)
家庭でも大活躍・テーブルオリーブ
シェリーズ(厚木市)
ゲスト
株式会社b.note
代表取締役 新井達夫さん
鎌倉三大洋館の一つ「古我邸」を特集。1916年に別荘として完成以来、時を重ね続けてきた古我邸。長年非公開だった歴史的建造物は、2015年にフレンチレストラン、ウェディングの空間へと生まれ変わりました。改修から運営を手がけてきたのは株式会社b.noteの新井達夫社長。オーナーや行政との交渉、資金調達などいくつもの困難を越えた再生事業。新井社長は「あの洋館に明かりを灯したかった」と話します。7年かかったという開業までのプロセスから、実現までを伺います。
1916年、後の三菱財閥の役員となる荘清次郎の別荘として完成。内閣総理大臣を務めた濱口雄幸や近衛文麿も別荘として利用したという記録が残っている。戦後には、日本のモータースポーツのパイオニア、バロン古我こと古我信生氏にちなみ、「古我邸」という愛称で親しまれてきた。
内田
私も拝見したのですけど、「古我邸」という洋館、これをお借りになっていろいろな事業を、フレンチレストランをやり、ウエディングビジネスをやり、ということですけども、そもそも、この古我邸との出会いというのはどういうものだったのですか?
新井
僕も実は18年サラリーマンをやっていて、ちょうどサラリーマン時代の後半、最後のときに「ウェディング施設を湘南エリアに作りましょう」という仕事があって、それで鎌倉に来たときに古我邸ではない別の建物を紹介されていたんですね。そこはもう売却が別の方に決まってしまったので残念だったという話の中で、すぐ近くに古我邸があって、「いやいや、こっちの方が全然良いじゃない」というところで。もちろん、「貸します」でもないですし、「売ります」でもない建物だったので、とりあえず住んでいる人のところに、「こんなことをやりたいのですけども、貸してもらえたりするものなのでしょうか?」と言ったのが、ちょうど10年前。
内田
どんな印象だったのですか?その洋館を見たときは。
新井
本当にもう腰が抜けると言ったらあれですけども、こんな建物が日本に、というか、鎌倉のこんな駅の近いところに残っていたという、まず衝撃が一つ。後は、今も門が建物に付いているのですけど、門が閉まっていて、何となく人気もない状態になっていたので、「その門を開けて夜に明かりを灯したい、灯せるはずだ」みたいな、ちょっと確信的なものはありましたね。
内田
面白いですね。そこから交渉が始まるわけですね?この洋館を使って僕はやりたいことがありますと。
新井
おばあちゃんが住まわれていたのですけども、「あら良いじゃない。結婚式をやったりね、美味しいご飯とか出てきて、素敵ね」という話だったので、これは話が進むのかな、と思ったのですけど、おばあちゃんがお住まいだったので、だからといって明日からできるわけでもないですし、「私はここに住んでいるからね」と言うので、「それはそうですよね」と。
内田
この企画には賛同して下さったけれど、「でも私は住んでいるからね」と言われてしまうと、「はい」と。それでどうしたのですか?
新井
元々レストランとかが出来る場所でもないので。お家ですし、住宅地ですので、じゃそれをどうやったらクリアできるか、みたいなことを調べて、鎌倉の不動産に詳しい人に可能性があるのかみたいなことを聞いてまわっていたのです。
内田
それで可能性はあると?
新井
いや、もうみんな口をそろえて「絶対無理」。「そんなことやる意味がないし、それは不可能だ」。役所の人も「無理」って言っていました。
内田
普通ならそこで諦めますよね?
新井
そうですね、まあそうなのかな。でも僕は無理と言われたときに、これはライバルもなく、どんなに時間が掛かっても、積み上げさえすれば出来るんだって感覚にはなりました。
内田
逆にね。
新井
逆に。やはり皆が賛成するものだったら、多分誰かやっていると思うんですよ、すでに。すごい大きな建物ですから。それを皆が「駄目だ、駄目だ」と言っているということは、やり遂げれば格好いいし、多分やりやすいだろうなと思いました。
内田
交渉から実際にオープンまで何年掛かったのですか?
新井
7年。
内田
7年待った?普通、待てませんよ。
新井
魅力は確かにありましたけれど、僕の中ではただ淡々と、今日もやろうと思ったし、明日もやろうと思ったし、あさっても思うんだろうなっていうぐらいの積み重ねでしかなかったんですよね。
大手リゾート会社を退社、起業から2015年のオープンまで7年の月日が流れた。オーナーや近隣住民、行政や金融機関など、様々な理解を得ながら進めてきた中でオープン。起業から現在まで、新井社長が辿ってきた経営とは。
内田
その洋館との出会いをきっかけに、自分は独立という道を選ばれた?
新井
そうですね。まだ全然、人のものでしたけどね。
内田
これが面白いですよね。まだ全然目処も立っていないのに独立したわけですね。それで拠点を鎌倉に?
新井
時間が掛かることはわかっていたので。役所とかとの話し合いというのも地元にいないとしょうがないと思ったので、鎌倉に会社を作って、時々おばあちゃんのところに行って、水羊羹とか持っていって「おばあちゃん、お元気ですか?」とか。
内田
それが展開していった、「よし」という風に状況が変わったのは何故だったのですか?
新井
「建物も大きいと維持も大変なので、住むのはやめようと思っているけども、そのままにしておくわけにもいかないから、前々からあなたがしつこく…」と。
内田
「来てくれていたから、あなたに貸すわよ」と、そのおばあちゃんが言って下さった。そこでようやく自分のやりたいことをやるということで、洋館をいろいろと直していくという作業になりますね?
新井
オーナーの方は「貸すのはいいですよ」となったのですけど、建物自体は元々住宅地にあるので、レストランとかができない。
内田
そこから様々な交渉が始まっていくわけですね。
新井
はい。オーナーも一緒になって役所とかと話しをしてくれたんですね。「このプランが駄目だったらもう壊す」と。壊して何かマンションでも建てるんじゃないですか、みたいな。
内田
そういう風に言って下さったのですね。貴重な洋館ですから、壊されたら重要な資源が失われてしまうということになるし、役所もそう思う。
新井
そう思うでしょうし、そんなことをやりながら。
内田
引き合いに出しながら、「自分たちが借りればこの洋館はずっと綺麗なまま維持されますよ」、というところがウリですね。
新井
そうですね、その一点ですよね。その役所との交渉も1年半ぐらい掛かりましたけど。
内田
借りることが決まって1年半ぐらい。そういうことで直すお金も結構かかりましたでしょう?
新井
お金は掛かりましたね。
内田
それはどうしたのですか?
新井
会社を作ったときからこれをやりたいと思っていたので、ある銀行に、そんなにお金は必要なかったのですけど、いざとなった時はお金を借りてちゃんと返済をしていって、それで今、いざという時が来たのでお金を貸して下さいと言ったら、「いやいや新井さん、新井さんは何にも、ご自宅もないし、建物も借りている建物だから、要するに担保もないからお金は貸せませんよ」という話になったんですよね。
内田
ずっと実績を作って、銀行と信用を作っておこうと思って頑張って来られていたわけですよね。そうしたらいざ本番になった時に、「いやいや、あなたには信用はありません」と。借りられない?
新井
借りられない。
内田
借りられなければ、直せない?
新井
直せない。ただオーナーとの話も進んでいる、役所との話も進んでいる。当然工事の費用を出せるのだろうと皆が思っているけど、実はまだ完全に準備ができていないという状態でしたね。
内田
どうしたのですか、その資金調達は?
新井
一つの銀行が駄目になって、でも他のところに行けばいけるだろうと。そうしたらそこも「駄目です」となって。元々、保障協会に全部話がいっているから、そこからすると、「この間もお断りして、そのメンバー変わってもお断りは同じですよ」ということだったのですね。ここも駄目、あそこも駄目となって、本当にもう頼る先がなくて、鎌倉の商工会議所に、僕も正直商工会議所がどんなことをやっているか知らないし、お金を貸してくれたりするのかすらわからなかったのですけども、そこの担当の人が、僕が最初に思ったように、やはりあそこに明かりを灯して門を開けたいというのを同じように思ってくれて、そこから地元の信用金庫の方に話をつないでくれて、やっと突破口ができたって感じです。
内田
やはり共感してくださる人が口添えしてくれた。「やりたいんです」という気持ちだけでいきましたね。
新井
その信用金庫の方が、どんなに断っても僕が事業計画書を変えないものだから、例えば建築費をもっと下げて、という風には変えて来ないものだから、よっぽど頭がおかしいのか、よっぽどこれに自信を持っているのか、一回会って話を聞いてみようというところから動き始めたのですよね。
内田
そこでなんとかリフォームをしていくというところまでたどり着いた。振り返ってみて、そこまで実現にこぎつけた理由、全く信用もない、お金もない、当てもないようなところから出来たのか、一言で言うと何ですか?
新井
一言で言うと「止めない」ってことだけですよね。何かすごく情熱があって、折れない心とか、そんな綺麗な言葉じゃなくて、ただ「止めなかっただけ」かなと思いますね。
築100年の洋館をレストラン、ウェディングの場として蘇らせた新井社長。実際の改修は、想定を上回る作業の連続。当時の外観を活かしながら飲食店として修復し、レストランフロアの間取り変更以外は、当時の姿を残しています。
内田
オープンが2年半前ということで、この日を待ちに待ったという感じだったのでしょうね。どんな日だったのですか、オープンは?
新井
オープンの日も決まって、いろんな人たちにも声をかけて、当然、オープンのセレモニーみたいなこともやろうと思っていたのですけども、開業が一月半ぐらい遅れたんです。それなのでそんなレセプションをやることもなく、実は結婚式の日にちが決まっている人がいて、オープンの翌日にはもう結婚式でした。
内田
ギリギリじゃないですか。
新井
いやもうギリギリでしたね。実はその新郎新婦も本当は開業が決まっていた日の前後で結婚式が決まっていたので、結婚式まで変えてくれたのです。だからその人たちのためにも絶対に、どんなことがあっても、どんな形でも絶対にその日にはオープンさせなければいけないというのはありました。
内田
そこまでギリギリこだわった洋館のリフォームですけども、今も空き家問題もありますし、価値のある古い建物を残すということは非常に重要になってくるのですけど、何が大変でしたか?
新井
大変だったのは、やはり自分の持ち物ではないので、借りるまでは、例えば壁を剥がして中を確認することはできないわけです。ですから開けてみると少し前の時代にリフォームみたいなことがされていて、ここに柱がないと建物的におかしいだろうなというところになかったり、別のところにあったり、というのもある。
内田
追加工事が増えたっていう部分も?
新井
もう、追加・追加・追加。
内田
壊すべきものと新しくするもの、というものも、いろいろと悩まれたと思うんですよね。
新井
僕の感覚でいうと、「工事しながらこれは残す」、とかではなくて、頭の中でいったん建物全部を分解してもう一度組み直していく、ブロックを一回バラバラにしてもう一度元の形に戻していくみたいな感じです。やはり一部だけを、ここだけを直せばいいという話ではないというのは、建物を触っていて思いました。例えば壁を剥がしたときに、ここの壁はこういう状態だった、ということはこっちもこういう状態かもしれない。そうであれば今のうちにいったん全部剥がして全部補強を入れておいた方が、建物が先に長生きできる、みたいなことは、想像で一旦分解しなければいけないということです。
内田
そういうものが見えてきて、これからどんなことを更にやっていきたいですか?
新井
今は古い建物を使って事業をやっているのですけど、やはり興味があるのは、そういうものを使って、そういうものというのは、皆はいらない、使いこなせない、ものは良いのだけども使いこなせないみたいなところに経済というか事業を見出したいというのが一番の思いです。
内田
「シェアリング」という意味では、もう使わないとか遊休資産をいかに有効に使うかというようなことに目をつけている人たちが多いのですけれども、新井社長としては具体的にどういうものに注目されているのですか?
新井
具体的に今、実際に動いているのは山口県の萩の町の一部で、古い町並みが残っているところがあるのですけども。20軒くらい。
内田
素敵な町並みですよね。
新井
綺麗ですね。日本でも有数だと思うのですけど、そこの町通り1本全部の再開発みたいなことを、再開発というか建物を残すので再開発じゃないかもしれませんけども。
内田
放っておくと町がどんどんと停滞低迷、寂れていってしまうという。
新井
建物は江戸時代の中期ぐらいの綺麗な商家が残っているのですけども、もう住んでいる人はほぼいないという感じですね。
内田
住まなくなったら、どんどん悪くなりますからね。そこでまた使命感が?
新井
まず、この通りを残すことができるのは俺だけかもしれない、みたいな。
内田
それは具体的にスキームが出来上がっているのですか?
新井
例えば、東京の資本だったり、都会の資本のお土産屋さんを入れて、とかではなくて、そこに住んで自分で事業をやる人だけを集めて。ちょっと古くなった漁港があるのですけど、処理をちゃんとして鮮度の良い状態で送れるような魚だけを揚げてもらって、それを東京や神奈川の方のレストランに直送で送るというビジネスをその町に付随させて。
内田
なるほど、そういう収入をしっかり得ながら町をじっくりと再生していく、皆がそこに住んでいると。住んでくれる人がいますか?
新井
すごく頑張らなくても、ちょっとお魚を東京に送る仕事を朝やって、あとは自分の家でレストランを昼ぐらいからやれば暮らしていける、というぐらいのベースを作ってあげたうえで、人を呼び込もうと思っているんです。
内田
そういうものを萩で成功モデルを一つ作って。また自分がやらなければいけないと思うところが日本中にいっぱいあるでしょうね。そういう再生をしていくところと自分がやりたいことと、ピッとくるという感じですか?
新井
そうですね。再生だし、自分の中で思っているのは「町の編集者でありたい」と思っているんです。もうあるものは変わらないですし、人も変わらない、そこに来てくれる人も変わらない、自分が良いと思える人を連れてこられるわけではないですから。だけど組み替え方や編集の仕方によって、「あらあらこんなことが起きるのね」と。それは古我邸も同じだと思うのですけども、それがやりたい。だから何をやっているんですか?と聞かれたら、「町の編集者です」って、そんな肩書きはないですけども、言いたいなと思っていますね。
tvkのYouTube公式チャンネルの「見逃し配信」では取材VTRも含め、インタビュー全篇をご覧いただけます。(視聴無料です)
ゲスト(左)
大塚製薬株式会社
女性の健康推進プロジェクト・リーダー 西山和枝さん
ゲスト(右)
京浜急行電鉄株式会社
前・鉄道本部 営業部営業企画課 伊藤綾香さん
神奈川県が進めている「神奈川なでしこブランド」を特集。女性が開発に貢献した商品を認定し、女性活躍推進のきっかけを提供するブランドの認定を受けた大塚製薬と京浜急行電鉄の商品から、女性活躍のリアルを探ります。
内田
「エクエル」と「葉山女子旅きっぷ」、それぞれどのような開発の背景があったのか、きっかけを教えていただきたいのですけども、まずは大塚製薬の西山さん。
西山
「エクエル」は、最初に大豆イソフラボンが女性にとってうれしい成分ということで、こちらの開発を先に行ったわけなのですけれども、開発を進めていくうちに、実は大豆イソフラボンではなく、「エクオール」という成分が、より女性の健康と美容をサポートする成分ということが分かって、このエクオールを気軽に手に取れる食品を作りたいというところで、18年間の歳月をかけて開発をした商品になります。
内田
18年?相当難しいものなのですね。
西山
その菌を発見するというのがものすごい作業量で、プロジェクトが今日で打ち切り、というところまでその菌の発見には至らなかったのですが、次の日に「何か一つ、ちょっと違うものができている」といったところから菌が発見できたというところに至って。ですから皆さんから「駄目」と言われて、解散と言われていたプロジェクトが、もう次の日には菌の発見に至っていたということで。
内田
何かもうドラマになりますよね。そのプロモーションに携わっていらっしゃるということですね。では伊藤さん、「葉山女子旅きっぷ」が生まれたきっかけは?
伊藤
弊社・京急線は三浦半島を沿線に持つ路線ですけども、やはり沿線外から当社線の沿線に足を運んでいただきたいという思いが常にあるところで、今年の夏で発売から8年になるのですが、「みさきまぐろきっぷ」という、ちょっとここでは自称・大ヒット商品と言わせていただきたいのですけど、企画乗車券がございまして、同じような仕組みで他のエリアにも皆様にお越しいただけないかなというところで企画した商品になります。葉山は車で行くイメージが強いかと思うんですよ、ドライブデートですとか。電車とバスで京急線を使うと品川から1時間かからずにアクセスいただける。かなり近い距離にありますので、そこに電車を使って来ていただきたいという思いから、まず最初は企画したところです。
内田
「みさきまぐろきっぷ」はどのぐらい年間で売れるのですか?
伊藤
「みさきまぐろきっぷ」は昨年度が15万枚を超えていますので。
内田
かなりの人がマグロを求めて、京急に乗って三崎に行く。
伊藤
そうですね、皆様にご愛顧いただいていると。
内田
すごいですね。そしてそれを超える、それに対抗する切符を作りたいと。いろいろなご苦労、ここはすごくこだわったというところを聞いていきたいのですけど。
伊藤
まずこの商品は、携わったのがほぼ女性社員で、これがリーフレットですけれども、やはり女性らしいビジュアルというのにまずはこだわりました。手書きでイラストを描き起こしてみたりですとか。あとは価格。お客様は旅行先のツアーですとか、いろいろな選択肢がありますので、シビアに選ばれると思ったので、品川から3,000円という価格ですが、やはり3,000円を超えてしまうとどうしても券売機にお札を入れるのが、なかなかハードルが高いと思うので、かなり鉄道の運賃も値引きをしていますし、バスもかなりお得になっていますし、あとは提携している店舗様にもご協力いただいて説得して回ったというのが苦労した点です。
内田
苦労していますよね。「絶対に3,000円だ」というのは伊藤さんが決めたわけですよね?
伊藤
そうですね。あまり大きな声では言えないのですけども、もう3,000円で絶対行こう、と最初から決めて、そこから心の中では動いて。
内田
なんとかこれを調整していこうと。西山さんはどうですか。プロモーションをやっていく流れの中でのご苦労であるとか、工夫であるとか。
西山
この「エクエル」というのは40代以降の女性に特におすすめしている商品で、私も似たような年代というところもありまして、私の話というのが刺さる方、分かってくださる方、共感をしてくださる方がとても多いので、すごく私も話をしやすいというところではとてもうまくいっているとは思うのですが、どうしてもまずは「女性だけ」という風になるのですね。女性にアンケートを取りますと、男性管理職、そして男性の職員に女性の体についてもっと理解してほしいというアンケート結果がものすごく多くありまして、そういったものを元に、最近は男性の管理職だけを集めてセミナーを開いたりですとか、男性の理解促進というところに今力を注いでいるという状況です。
内田
「エクエル」を単純にプロモーションするのではなく、まず女性の体とはどういうものなのかということ、さらにそれを男性の管理職の方に知ってもらうことで女性が働きやすくなっていくであろうと。
西山
昨年の4月に「女性活躍推進法」が施行されまして、女性が活躍できる環境というのは整いつつあると思うのですけれども、「女性の健康って考えたことがありますか?」というお話をしますと、皆さん「え?健康?」「それはもうベースにあるものでしょう?」というイメージなんですね。そんな中で「2020年に女性管理職30%」という数字が掲げられて、皆さん、数字の目標を立ててものすごく躍起になっていらっしゃるのですが、管理職の時期というのは、女性の特有の健康問題で頑張り切れないとか様々な問題がある。そういうところを周囲が理解して管理職を作るなり、女性にもっと長く働いてもらうなり、そういう環境を整えたい。日本はまだまだ遅れていて、こういうお話はタブー視されている部分もありますので。
内田
更年期であるとか、女性ホルモンが減っていく、ということは女性には言ってはいけない、女性自身もそれを認めたくないし、言いたくないし、言わない、ということですか?
西山
そうですね。そういったところをもう少しオープンにできるような環境をつくりたいという風に思っています。
2016年から施行された「女性活躍推進法」。これまで、働きたくても働けない、出産や育児、介護で非正規雇用にならざるを得ないなど、様々な困難と向き合ってきた女性の働き方。法の施行によって、301人以上の企業については女性の採用比率、勤続年数の男女差、労働時間、管理職比率などを把握、分析、推進することが義務付けられました。
内田
今、「女性活躍」という言葉がものすごく言われるようになって、一人歩きしているみたいなところもあるのですけれども、ここからはそれぞれ働く女性としてのご意見を、まずはお二方に、自分の会社というものはどういう会社だと客観的に見ているのか?西山さんから。
西山
弊社は女性役員の数も多ございますし、私のようなリーダーを担っている女性の数も他社に比べて多いのではないかと思います。そういう意味では働きやすい、女性が働きやすい会社ではないかという風に思っています。
内田
それは元々そういう社風なのですか?それとも変化が起こっているのですか?
西山
元々そういう社風で1990年から「女性フォーラム」と言いまして、社内で女性の社員とその上司を集めて、女性の働き方についてのフォーラムを始めていたぐらいです。
内田
かなり早いですね?
西山
はい、その当時は誰もが付いていけなかったんですね。
内田
女性社員がちょっとそれに対して引いていた?
西山
「何故これをやっているんだろう?」というぐらい。もう本当に先駆けですね。
内田
西山さんはいろいろな会社に行って、セミナーもやって、女性がこの会社ではどういう扱いなのか、みたいなものも感じるわけじゃないですか。そうするとやはり自分の会社は先駆けているということはすごく?
西山
感じますね。女性の管理職の数云々ということに限らず、女性が働きやすく働いているのかどうかとか、やはり話しているとわかる。やはり管理職も含めて責任のある仕事を女性に任せているという、そういったところからもちょっと他社と違うかなという感じがします。
内田
プライオリティーの高いプロジェクトも女性に任せる。伊藤さんはどうですか?京急という会社をご自身からご覧になって。
伊藤
私はまだ入社して今年で5年目なので、本当に新入社員の視点になってしまうのですけど、現に入社したてホヤホヤでこの企画乗車券に携わらせていただいて、若手社員とか、女性社員とか、そういう垣根なく意見を聞いてくれるという風土はあると思います。入社して半年研修をして、その後配属されて、花形のような部署なので、「まさか自分が」とは思ったのですが、いざ仕事に携わってみると自分がこの年齢で、経験のない中で、その部署に来た意味というのを探すように自然になりまして。
西山
落ち着いていますね。
内田
私がここにきた意味は何だろうと?
伊藤
そうですね。今の私にしかできないこと、それを形にできる風土が会社にはあると、実体験を元に思います。
内田
ものすごく考えて、使命感を持って、「私がやるしかないじゃない!」と?
ちょっと熱過ぎたかもしれないくらいの使命感はありました。
内田
それでその「葉山女子旅きっぷ」に、その情熱をつぎ込んでいったと。「熱過ぎるかな」ぐらい。周りの人もびっくりしたでしょうね。
伊藤
多分本当に、鬱陶しかったぐらい熱かったかなとは思うんです。
内田
でもそれぐらい活躍させてくれる職場であるということで、どうですか?この使命感というところですけど。
西山
すごいですね。私はとうの昔にどっかに置いてきちゃったかなっていうぐらい、今聞いていて気持ちが良かったですもの。
内田
でもきっとご自身、女性の働く現場の改革というところの、「改革の旗手」みたいな思いはあるんじゃないですか?
西山
私が入社したのが22年前ですので、その頃は女性の社員という数も非常に少なかったですし、やはりパイオニア的に、いろいろと仕事をしてきた一人ではありますので、苦労は確かにありましたけれども、今はそういう苦労とは違うところ、女性の健康を啓発していくという、また違うところで今はやっていますので。
内田
とても活き活きと働いていらっしゃる様子が、ここで今話をして伝わってくるのですけれども、そういう「女性活躍」というようなことが言われる中で、でも活躍しているからこそ違和感を感じることもあると思うのですね。このムーブメント的なものに対して、リアルな意見を聞きたいと思うのですけれども、働いていていかがですか?
西山
ムーブメントを起こすということは必要だと思うのですね。ただ我々としては、そういうことをされなくてもやってきた人間ですので、すごく違和感を覚えるところは確かにあります。いくら「頑張れ」と上から言われても、やはり自分では頑張りたいけれども体の不調で頑張れないというときもありますし、また女性を起用していくのは良いのですけれども、そのフォローアップ体制っていうのがなされてないので、何かがあると「やはり女性は駄目だ」と、そこで烙印をすぐ押しますし、根付くまではサポートを誰がしていくのかという、サポート役まで見極めて女性が働くということを推進していかなければ、多分この日本では無理だと思います。この動きを受けて抜擢された女性もいれば、様々な女性がいると思うのですが、いきなり起用されてもなかなかできるものではないのですね。それをフォロー無しに、何かがあればすぐ駄目だということになってしまう。そこは、根付くまで男性がどこまでサポートするのかというところも、ちゃんと話をつけて欲しいという風には思っています。
内田
それをするためには女性の体のこともちゃんと理解して、ということですね。どうですか?伊藤さん。
伊藤
私自身、女性だから何かあったということは一切なくて。やはり世の中が女性の活躍をサポートしてくれる風潮になってきたからこそ、私が何もせずとも、心に何か負うことなく働けているということがあるのかなと、お話を聞いていて思いました。
内田
なるほど。ではお二人に、働く女性として、個人として、こんなことをやっていきたいということがあれば教えていただきたいのですけど。
西山
やはり女性がいつまでも活き活きと輝いている、そういう女性が多ければ多いほど日本も輝いていく、ご家庭でも女性が明るければ家庭も円満という風に思っているので、女性の健康については生涯携わって啓発活動をしていきたいと思っていますし、そこに「エクエル」という商品があるかもしれませんし、もちろん他のものでもいいので対処していって欲しい。我々折角生きているのですから、健康寿命、ピンピンコロリじゃないですけれども、やはり死ぬまで元気でいられるような人生を送りたいと思いつつ、皆様にも送ってほしいと思って、そういうセミナー活動を今後もしていきたいと思っています。
内田
伊藤さんは?
伊藤
これから女性活躍の面でも、それ以外、オリンピックですとか、数年後に横浜に本社移転が控えているのですが、その変化の節目節目で、女性ならではの意見が取り入れられるような環境というか、周りを巻き込んで、「あ、女性だからこういう視点があったね」とか、女性がキーマンとなって物事を進めていけるような、そこの中心にいられるように頑張っていきたいと思っています。
tvkのYouTube公式チャンネルの「見逃し配信」では取材VTRも含め、インタビュー全篇をご覧いただけます。(視聴無料です)
介護サービスのマッチングビジネス
メディカルケアワークス(横浜市)
ゲスト
ヨコハマトリエンナーレ2017組織委員会事務局
開催本部長 神部浩さん
横浜美術大学 特任教授 宮津大輔さん
横浜市で開催されている「ヨコハマトリエンナーレ2017」特集の後半。国家プロジェクトとして位置付けられている現代アート国際展。ゲストは組織委員会の神部浩開催本部長。事業規模や横浜市の予算、開催までの裏側を伺います。また、コレクターでもある横浜美術大学・宮津大輔教授には、現代アートシーンをめぐる現状、トリエンナーレ開催の意義と、「経済」「現代アート」の間を伺いました。
内田
神部さんはヨコハマトリエンナーレの開催本部長という役割で、組織委員会の事務局というところに所属していらっしゃる。これは具体的にどういう役割を担っているのですか?
神部
この展覧会を行なうにあたって、例えば作家との調整ですとか、展示の構成、それから会場運営、それと会場間でバスも運行。そうした運営に関わる様々なこと。それから広報PRですとか、チケット販売ですとか、国際展を行なうにあたって必要な様々なあらゆる事務を、事務局として行なっています。
内田
実質的な主催者というのは、この組織委員会ということでよろしいですか?
神部
はい、そうなります。
内田
最初は国主体、外務省主体というところで始まり、途中から主体が国から横浜市、もっと言うと組織委員会というところに変わった。これはどういうきっかけだった?
神部
2011年の第4回展を行なうときに、当時、民主党政権時代に「事業仕分け」というのがあったと思います。その中で国際交流基金は、もっと国外で日本の文化を発信することに力を入れるべきじゃないかというような議論があったという風に聞いています。ただ国際交流基金が今でもトリエンナーレの方にご協力いただいていますし、当時は国際交流基金から文化庁の方に支援の窓口が変わりまして、今でも文化庁から特別のご支援をいただいています。もともとナショナルプロジェクトとしてスタートしたプロジェクトですので、主体が外務省から文化庁に移りましたけれども、私たちはナショナルプロジェクトとして、このヨコハマトリエンナーレを文化庁と一緒に進めています。
内田
今、多くのアート国際展がある中で、ちょっと位置付けとしては違う?
神部
ヨコハマトリエンナーレは全国の様々ある国際芸術祭の中でも唯一公募ではなくて、文化庁からのご指名で支援をいただいているという芸術祭になっている。国を代表するような、日本を代表する、世界に向けて恥ずかしくない、質の高い国際展を行ないたい。それが私たちの目標です。
内田
(横浜)市が主体ということで、市民の税金も使っているというところで、お金の話も聞いてみたいのですけれども、このヨコハマトリエンナーレの予算というのが約10億円。
神部
約10億円ですけれども、そのうち横浜市からの負担金が予算で3年間で約6億円です。その他に文化庁からの支援が約2億円弱。それとチケットの収入が約1億7,000万円くらい。そのほかに協賛金をいただいたりですとかということで約10億円ということになります。
内田
これは採算が取れているのか、黒字なのか、赤字の垂れ流しになっているのか、というような、市民からの目というものある。実態、運営はどうなっているのですか?
神部
おかげさまで横浜に主体が移ってからは2011年、2014年とも、予算よりも多くチケットをご購入いただくことができまして、3年6億の予算ですけれども、少し余った予算は横浜市の方にお返しするということで、今のところ黒字を維持してきています。
内田
私ども経済番組なので、ヨコトリが横浜に与える経済効果というのを知りたいのですけども。
神部
前回展、2014年度のときの経済波及効果ですけれども、約23億円の経済波及効果というのが試算で出ています。ご来場者の方に実際どのぐらい横浜でお金を使いましたと。
内田
アンケートして?
神部
例えば、「お食事でいくら使いましたか?」とか、「お土産で何を買いましたか?」とか、トリエンナーレの会場だけではなくて、例えば他の観光地でこんなことしましたというのを伺って、それを元にお一人あたりの消費額を出して、それにご来場者の人数を掛けているということなので、我々としては信頼の置ける数字という風に思っております。
内田
23億円、これは満足の数字ですか?
神部
いえ、もっともっと増やしていかなければいけないと思っています
内田
「横浜で続けていく」ということであるならば、その意義を教えていただきたいのですけども。
神部
国内の国際展と競争するのではなくて、世界の中でアジアを代表するような国際展を目指していきたいという風に思っております。ちょうど次回展は2020年、東京オリンピック・パラリンピックの年になります。世界に向けて発信する絶好の機会ですので、アジアを代表する現代アートの国際展に横浜トリエンナーレを成長させていきたい。
イベントのコアコンテンツとなる現代アート。「現代アート経済学」を執筆した横浜美術大学の宮津大輔教授にインタビュー。長年会社に勤めながら、コレクターとして現代アート市場を見続けてきた宮津教授に「現代アート」を経済の視点で伺いました。
内田
今、世界中で現代アートの国際展というものが非常に増えているという風に思うのですけども、「現代アートの国際展をやっている場所」ということで、世界的にもバリューが上がるということなのですか?
宮津
もちろんアートとかクリエイティブを通して、そういうものに関心がある人たちに対しては、訴求力があると思いますけれども、世界中で同じような試みがされているのであれば、「独自性がないもの」というのは訴求力が強くないわけですから、やっている地域や国の間でも競争というのはどんどん激化しているのが現状ですね。
内田
うまくいくケース、宮津さんからご覧になると、どういう要素が整っていると、「これは成功だろう」という風に見えますか?
宮津
まず評価でいうと、「どれだけ経済的な効果があったか」というものと、もちろん入場者数とかそういうものもあると思う。うまくいっているところというのは、「今回-次の回-過去」と線で繋がって、アートだけじゃなくて、その町とか都市の名物だとか、スポーツだとか、文学だとか、面で繋がって、縦にも横にも広がっていく可能性があったり、実際そうなっているところというのはうまくいっていますけども、ビエンナーレ、トリエンナーレは、一つのきっかけというかトリガーなので、そこうまく作用しているところのものは、タイプは違っても印象も強くなるし、ビジネス的にももちろん成功すると思います。
内田
国際展をやっていくという中で、いろいろな要素がある中で一番大事になる力というのは何だと思いますか?
宮津
人によって評価が違うと思うのですけど、私は今、大学で教員をしていますが、30年間ビジネスマンをやっていたので、私の視点になりますけど、質的に、アートの展覧会、国際展としてどう評価されるか、特にそのアートの世界のプロフェッショナルの人たちから、世界的にどう評価されるかを皆さん考えると思うのですけど、やはり入場者数とか経済波及効果みたいな経済的な視点で、多くの人がやってくる、そして顧客満足度が高いというビジネス的な視点もないと長く続けていくことが難しいじゃないかなという風に思っています。
内田
そういう経済波及効果を狙っていくということは大事だと?
宮津
そうですね。ただ非常に今難しいのは、以前だと単純だったので、例えばヨコハマトリエンナーレに来て、来るのに電車を使う、車を使う、お昼を食べる。でも泊まるのが東京だったらホテル代は東京に落ちるというレベルだったのですけど、今はグローバル化で世界が繋がっているのと、もう一つはIT、ICTそういうテクノロジーの力が作用しているので、例えばですけども民泊、airbnbのような民泊ですね、それからUberのようなもの、例えば中国からヨコハマトリエンナーレを見に来たお客さんが、中国の旅行サイトから、中国の在日中国人の方が持っている民泊を利用して、中国のサイトから中国版Uber、これが法律的に許されるかどうかわからない白タクみたいなものを利用したとしたら、全くお金が落ちないわけですよね。
内田
確かにそうですね。
宮津
新しいマーケティング手法みたいなものも一つのイベントとして考える、ということは、ヨコハマトリエンナーレに限らず、重要なことではないかと思っています。
内田
仕組みを作り上げていくということで、もっとヨコトリをやる意味、意義が出てくる?
宮津
世界的に今、経済が停滞傾向にありますから、今まさに少子高齢化、税収の低下というものに直面しているわけですけども、どういう仕組みを作っていったら文化と経済が相互にうまく作用するかということを、我々が良いロールモデルになっていくことが結果的に世界に見本を作っていくのではないか、という風に私は思っていますけども。
内田
現代アートの世界で宮津さんがコレクションをされている中で、「これは本物である」という、その目利き力というところがあるとしたら、どういうところをポイントにされていますか?
宮津
現代アートは翻訳で、英語だと「コンテンポラリー・アート」。コンテンポラリーは「現代の」という意味もあるのですけど、「同時代の」という意味もあって、我々が生きているこの時代、同時代を生きている、同時代性がある作品というのが重要じゃないかなと思っていて、アーティストが、「今、これを表現しなきゃ意味がない」というぐらいの同時代性、強いそのコンセプトみたいなものがあるものが現代アートではないかと私は思っています。もう一つは視覚芸術なので、美しい、綺麗だけじゃなくて、怖い、恐ろしい、強烈、みたいな、そういう視覚の持つ力が備わっているものが良い作品なんじゃないかなという風に思っていますし、そういう基準で自分のコレクションは作っているつもりです。
内田
アーティストが今を感じて、もう伝えずにはいられないという、湧き上がって止むに止まれず作るみたいなものが、すごく大事であろうと?
宮津
今この時代を反映しているということが重要。不思議ですけど、紛争とか内戦で非常に大変なことになっている地域から出てくるアーティストの作品で多いのが映像作品ですね。簡単に、例えばビデオカメラみたいなものやコンピュータで編集ができるので、そういう状態の中で絵筆を持って絵の具が乾くのを待っている場合じゃない、だけれども今この瞬間を表現しないと生きていけないような状況の中で映像が、デジタルなものが出てくるのではないかと想像しているのですけども。そういう風に考えると、アート作品の中身もそうですけど、表現の形態とかメディアも、やはりアーティストがどういう状況かによって選ぶものが決まってくる。
内田
なるほど、すごく面白いですね。絵の具が乾く暇もないというような混乱の中で。
宮津
でもやっぱり作らざるを得ないアーティストがいるわけですから。
経済と密接な関係を持つ現代アート。宮津教授は、現代アート作品の中にこれからのビジネスに通じるヒントがあると言います。
内田
今、アートの全体の市場といいますか、マーケットというところで見ると、宮津さんはコレクターであるということで、やはり「アートの値段」というものに対して非常に敏感でいらっしゃると思うのですけど、私から見ると、現代アートが投機の対象になっているという風にも見える。ここに現代アートの国際展の開催、その他アートシーンを取り巻くものというのは、どんな影響を受けているという風に宮津さんはご覧になっていますか?
宮津
おっしゃる通り、今非常に市場は大きくなっていますし、一部の名品に限られますけども、1点あたりの価格帯が一部の作品は非常に高額になっている。100億円、200億円という作品がどんどんオークションで出てきたりしているわけですけれども、市場原理で、近代の良い作品というのもあまり市場に流通しなくなっている、印象派とかエコールドパリというのも収まるべき美術館に収まって、優品や名品が滅多に出てこないので、現代の良いものを買おうとするわけです。それは美術館もコレクターも同じですから、その値段もものすごい勢いで上がっているのですね。かつてこれほどマーケットが美術に影響を及ぼした時代はないんじゃないかというぐらい、今はマーケットのパワーが強くなっています。アートはある意味、金融商品の部分も、これは昔からある部分なので。
内田
そうですね。
宮津
昔から名品は高いので。そういう意味で言うと、今、投機対象にもなっていますし、もちろん美術館とか、特に後発の美術館を建てるような国や地域のところで、資金が潤沢にあるところは旺盛な購買欲をもって作品を購入している状況ですね。
内田
これから日本経済が発展していくというところの力になる部分というのは、アート力であるとか、デザイン力であるとか、そういう部分?
宮津
我々日本の持っている歴史とか、日本独自の考え方というのは他にないものなんですね。そういう意味でいうと、今まで日本企業が不得意としていたのはどちらかというと顧客視点じゃなくて、プロダクトアウトな技術で、「技術力はあるのに…」というのが多かったと思うのですけども、やはり日本独自の価値観なり、そういったものをうまく技術と組み合わせる、そういうクリエイティブな発想があれば、さっき言ったように少子高齢化みたいな問題点に、我々が一番先に遭っているわけですから、日本企業が他の国や地域に先んじて、そういう新しいビジネスを開発して、もっともっと競争力を高めていく可能性というのは非常に高いと思っていますし、そのヒントの多くがアートとかクリエイティブなデザイン、そういう中にあるんじゃないか、という風に思っていますけども。
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ゲスト
ヨコハマトリエンナーレ2017
コ・ディレクター 三木あき子さん
ベネッセアートサイト直島インターナショナル・アーティスティックディレクター
パレ・ド・トーキョー(パリ)チーフ/シニア・キュレーター、ヨコハマトリエンナーレ2011アーティスティックディレクターなどを歴任
第46回ヴェネチア・ビエンナーレ「トランスカルチャー」、「台北ビエンナーレ:欲望場域」、「チャロー!インディア」など、アジア・ヨーロッパで多くの企画を手がける
横浜市で開催されている「ヨコハマトリエンナーレ2017」を特集。3年に一度の現代アート国際展として2001年にスタートし、今年で6回目。タイトル「島と星座とガラパゴス」が表現するのは「接続性と孤立」。紛争・難民・移民やポピュリズム台頭など大きく揺れる世界を多様な作品で伝える。ゲストはアジア・欧州で多くの国際展を手がけてきた三木あき子氏。海外アーティストへのインタビューや、現代アートシーンの変遷から、イベントの持つ意義を探ります。
内田
三木さんは「キュレーター」という職業ということですけども、どういうお仕事なのですか?
三木
日本語ですと「学芸員」。美術館の学芸員という言葉をお聞きになったことがあるかと思うのですが、それが英語になりますと「キュレーター」という言葉になります。そのキュレーターという言葉のもとにあるのは「キュラトーレ」というラテン語ですけれども、英語で言いますと「テイク・ケア」、要するに「世話をする」という言葉が元々あるんですね。美術館で展覧会を企画する人たちのことをキュレーターとも呼びますし、また美術館に所属せずにフリーで美術の展覧会を企画するような人たちのことを一般的にキュレーターという風に呼んでいます。
内田
アートの国際展のキュレーターというと、やはりスターキュレーターのような、「この人がやっているのだったら」というような、名前が知られているような方たちがいる。それぐらい展覧会の成功というものに、キュレーターの力は大きい。そういう中で、今回のヨコハマトリエンナーレというのは、責任者といいますか、キュレーションという部分で「チーム制」をとったというのは前回と大きく違うところだと思うのですけども、これは何故なんですか?
三木
やはり「共に生きる」ということがテーマの一部としてもありますので。それと共に、大きな一つの声が響く時代ではないと思うのですね。
内田
ずっと三木さんが感じられている社会的な現象?
三木
現代美術の展覧会というのは、「作品を通して現代を考える」というものですので、それを考えたときにいろいろな意見もあり、それが関係性を持って、そしてできれば共鳴をしていくような形を展覧会として試してみるということもあり得るんではないかということで、今回、構想会議であるとか、共同ディレクターであるとか、展覧会を作るためのキュレートリアルチームであるとか、そういうようないろいろな人たちが関わって展覧会というのが成り立つような形になっています。
内田
今回のテーマが「島と星座とガラパゴス」ということで、可愛らしいテーマですけども、そこの奥に秘めている部分というのは全然可愛らしいものではなく、非常にジャーナリスティックなテーマを据えているという風に思いまして。例えばグローバル化に対してのポピュリズムの台頭であるとか、接続性、孤立であるとか、今の社会問題みたいなものを内包するようなテーマですけども、この狙いは何ですか?
三木
私としてはそんなにジャーナリスティックなものを狙ったつもりはなかったのですけども、そのタイトルを聞いたときにいろいろな立場の人がいろいろな発想が出来るようなタイトルにしたいというのがあったのですね。それがあって、ちょっと可愛くもあり、ちょっと現代美術展っぽくない、「島と星座とガラパゴス」っていうタイトルになったのですが。もう一つは、展覧会を作る、内容を作る立場として、私は「テーマは企画者側にとって本当にリアリティのあるものでないといけない」と思っているのですね。そうでないとやはり人に対して何かのメッセージを与えるようなものはできないと思っています。そういうことで考えると、「島」というテーマは、EUからイギリスが離れるというような状況というのは、個人的にも非常にショッキングな状況でした。ずっとヨーロッパの美術館で仕事をしてきましたので、私がヨーロッパで仕事をし始めた90年代というのは、歩み寄りをしていて、どんどん境界がなくなっていくような時代だったのですね。それがたったの20年ぐらいでこんなになってしまうというのが、非常にショックでしたし、右か左かとか、グローバル化かガラパゴス化かという、そういう二極対立で、短期のビジョンで、物事を見るような傾向が非常に多いと思うのです。しかしながら物事は見方を変えれば全然違う。まさにジョコ・アヴィアントさんの作品の前に私たちはいるのですけども、この作品のタイトルが「善と悪の境界はひどく縮れている」という、つまりその境界というのは非常に微妙なものなのですね。そうした今の単純に二極対立でものを考えるようなことに対して、そうではなくてもっと物事、状況を俯瞰的に捉えることであるとか、多面的に捉えることであるとか、そういうことが重要なのではないかと。作家の多くの人たちがそういうことに対して非常に危機感を感じていて、そういうことに対してもっと違う視点から作品を作り出そうとしている。そういうところが今回の展覧会の背景にはあります。
内田
ヨコハマトリエンナーレというような大きな規模で、テーマというものを据えて、それに合った作品をキュレーションする、集めてくるということは、すごく大変な作業なのだろうと思うのですね。
三木
3年とありますけど、3年間全てを準備に費やせるわけではないのですね。ですので、多くの国際展といわれるもので実質的に内容を決めるというのは1年とか1年半とかというケースが非常に多いですね。且つですね、やはりテーマに関連して海外に調査に出なければいけないですし、作家のところに行って「出てください」とコンセプトの説明をして、あるいは作品の借用の交渉もしなければいけない場合もありますし、例えば新しい作品を作る時に作家からプロポーザルを出してもらったとしても、お金が掛かり過ぎてできないという場合もありますし、コンセプトと合わないというケースもありますし、最終的にそこで折り合いがつくまで、やはりいろいろなやりとりをします。この竹も燻蒸しなければいけなくて、当然、美術館の中にそういうものを入れる時は全て燻蒸しますので。ただ今年はヒアリ問題で燻蒸業者が大変忙しくて、結構ギリギリまで本当に。燻蒸しないとやはりどうしても持ち込めませんから。
内田
消毒するというか、そういうことですね?
三木
そうです。そういう危険性があるものは入れられませんから。ですので、そういういろいろな作業が出てきて、そして、作家がここに来て、実際この場所で作品を作る予定だったのが病気になってしまったとかですね。ちょっと言い方は悪いのですけども、生きている作家と一緒に仕事しているというのは生ものを扱っているのと同じですから。先ほどのキュレーターという、ケアをする、世話をするということでいうと、予想できないようなことも日々起こってきます。
内田
それぞれの方との契約、費用というのも、経済番組なのでお聞きしたいのですけども、差し支えない範囲で教えていただけると面白いと思うのですが。
三木
ヨコハマトリエンナーレということではないのですが、基本的、一般的な話として言いますと、全く謝礼がない場合もあります。ヨコハマトリエンナーレはそれほど高くはないですけれど、基本的にはお支払いするようにはしています。まあ気持ちということで、お支払いはしています。色々なケースによっていくつかパターンを決めていますが、例えばもう本当に一から新しい作品を作ってもらうとか、そういうのもまた違いますし、単純にある作品を設置してもらうだけだというのも、それはやはり作業量が全然違いますから、そういう形でも違ってきます。国によってもちょっと違う。国によって支払うということが慣例となっているところもあれば、払わないということが慣例であるという場所もありますので、一概には言えない部分ですね。
事業としてのアートイベント。アーティストとの交渉や展示を実現するための予算。ヨコハマトリエンナーレはどのような数字で動いているのか。その変遷とアートをめぐる環境の変化を探ります。
内田
三木さんは、過去、いろいろな企画展であるとか、国際展を成功させてきたというキャリアがおありになると思うのですけども、今回、数字で見るヨコトリということで、経済番組ということで表を作ってみました。この中で、数字の変化が見えるところも見えないところもあります。総事業費というのは変わってない?
三木
そうですね。
内田
この展示製作費というものが、実際に作品をここに据えるために必要な費用ですね?
三木
そうですね、先ほどのお話に出ていたアーティスト・フィーであるとか、新作を作るための製作費であるとか、作品を持ってくるための輸送費であるとか、またその保険がものすごく掛かるのですね。ですので、保険代であるとか、いろいろなものを含めてです。それを考えますと、2017年は、やはりいろいろなことが高くなっていますので、それを考えても、もうちょっと上がってもいいかなと。
内田
「もうちょっとここは上がって欲しい」という三木さんのお立場の意見?
三木
そうですね、ええ。
内田
作品・参加作家数という風に括っているのですけども、ここの変化は是非ご説明いただけたらと。
三木
大きな理由としては、今回はテーマとの関係性もあり、一点だけというのではなく、一人の作家がいくつもの作品を出していて、どういう作家なのかというのが、できるだけその中でわかるような形になること。もう一つ言いますと、実は著名作家も多く入っている。マウリツィオ・カテランさんという、小さな顔がいっぱい出ていますけれども、あの方は今、絶筆宣言をされて、「アーティストを辞めました」といった人で、過去の作品であってもなかなか展示を出してこない。ですけども、今回はどうしても出してもらいたいということで、ミラノまで追いかけて、世界中を回っている人なので、もうどこで会えるのかという感じだったのですけども。
内田
もう追っかけみたいにして、どうしても出てほしいと?
三木
追っかけ、そうですね、それに近いかもしれないですね。どこで会えるかという。それを考えているときに、これくらいの数が予算的にも。
内田
妥当であると?
三木
これ以上は難しいということと、もちろんスケール的なこともありますし。もう一つの理由は、お金とは関係ないのですけれど、できるだけ丁寧に作家と話をして展覧会を作りたかったのですね。そうするとやはり、これ以上増えてしまうと作家とコミュニケートが取れない。それができるのもヨコハマトリエンナーレが、まだ6回ですけど、されど6回ですよね。やはり継続してきているからこそ、毎回いろいろな取り組みが出来るのだろうという風に思います。
内田
作家を捕まえるのも大変、というくらい、もう国際展が世界中で飽和状態、作家の争奪戦、作品の争奪戦みたいなところになっていると思うのですね。あとは経済面で見ると、非常に世の中が金余り状態になっていて、モダンアートが投機の対象になっている。何か歪みが生まれているのではじゃないのか、ということを何となく感じている、その部分を三木さんはどんな風に見ていらっしゃるのか。
三木
美術館で大規模な展覧会などがあって、実は出そうと思っていた作品、出したかった作品がその展覧会に出ていますということになると諦めなければいけない。そういうことが本当によく起こっていますし、やはり現代美術が、ある意味投機の対象になっている。若い作家の作品なのに非常に評価額が高くて、保険額がとんでもない額が来たり、ということもありますので、展覧会を作るというところにも影響がないわけではないですね。
内田
国祭展をしっかりとやりくりしていくという、キュレーターの力、そういうことを成功させていく要素で必要なもの、魅力ある作品を集めることができるキュレーターの条件といいますか。
三木
一つには、作品を通して時代を読む力、これはもう絶対に必要だと思います。現代美術というのは、今アクチュアルな、今起きている時代のことですから、そこから乖離してしまった作品だと人の心を動かすことというのはできない。読み取る力というのは絶対的に必要だと思います。それといろいろな人たちと関わっていかなければいけないので、その人たちとコミュニケートができる能力、そしてその人たちを、ある意味動かすような人間力といいますか、そういうような魅力というのは常に持ってなければいけない。あとは予算のことは常に頭の中に入れてやっていかなければいけないのですが、しかしながら一方で、未来の価値であるとかそういうことを扱っているわけなので、そこで時にはリスクを犯さなければいけないこともあるのですね。どこかでこれは絶対的に必要だから、それが出るように、どこかで自分でお金を持ってくることができれば持ってきますし、できない場合もある。その場合、やはりどこかを下げて、そこにお金を出すとこともやらなければいけないですし。
内田
集中させる?
三木
そうですね。
内田
国際アートのイベントがたくさん増える中で、横浜でトリエンナーレをやり続ける意義というのは?
三木
国際展というのは、現代美術のアーティストの、ある意味、他者の視点を通して今まで気付かなかったようなことを気付かせてくれたり、そういう新しい発見の一つのきっかけなのですね。同時にやはり横浜の町は開港、開国の場所で、今回「接続性と孤立」というテーマを提案したもう一つの理由としては、開港・開国の町で、それまで孤立していた場所が突然接続の場所に変わったわけですよね。ですので、やはり横浜でトリエンナーレというのが開催され続けるというのは非常に意味があることだと思いますし、本当に興味を持ってもらって、そして知ろうとするということを、作品に接することで体験してもらうことに繋がっていけば、という風に思います。
tvkのYouTube公式チャンネルの「見逃し配信」では取材VTRも含め、インタビュー全篇をご覧いただけます。(視聴無料です)