神奈川ビジネスUp To Date
ゲスト
株式会社セルタン
代表取締役社長 八木美樹男さん
【プロフィール】
1954年 神奈川県厚木市出身。
1976年 法政大学経営学部経営学科卒業。
1978年 東邦セルタン工業株式会社(現・株式会社セルタン)入社。
1990年に代表取締役社長に就任。
現在国内ソファ市場の9割を占める海外製品。その中でネットモールで1位を獲得するなど人気を集める「セルタン」の商品。海外製に負けないコストパフォーマンスを実現する独自の製造法とは。また、高齢化社会へ向けたシニア活用の取り組みを八木美樹男社長に伺います。
内田
今、ソファ業界はどんな状況になっているのですか?
八木
日本で売られている8割から9割はたぶん外国製ですね。
内田
残りの2割、1割というところで、細々と?
八木
はい。
内田
セルタンは「国産」というところを大事にする。何故、ここにこだわるのですか?
八木
実は私ども、もうずいぶん昔から、もう30年以上前から中国に工場作りまして、どちらで作っても似たようなものはできるのですね。価格的にも、運賃を考えてもほぼ同じ。もしかすると、中国で作った方が安くあがるということなのですけども、そうすると、今度その中国製で、中国の他の企業の人たちと戦わなければいけない。それよりは、他の企業の人たちが中国製を持ってくると、「メイドインジャパンで戦う」ということを選んだのです。現実に自分自身でも、中国で自分の会社で作ったソファと神奈川県厚木の自分の会社で作ったソファと、両方を比べるとやっぱり微妙に日本製の方がいいのですね。その細かい点がやはり違うのですね
内田
どういうところですか?
八木
例えば日本の、日本人というわけではないのですけども、日本のこの環境の中で商品を作ると、もし何か作業の中で問題がある商品が流れてくると、その作業者の方が、「これちょっとおかしいよ」と言って、出してくるのですね。でも中国などですと、とりあえず自分のところへ来ると、「私の責任はこの範囲です」と。それで、「これ終わりました、はい次へどうぞ」という形でそのまま流れてしまいまして。最終検査はやるのですけども、最終検査というのはどうしても外側しか検査できない。やはり日本で作ったものの方が安心できますかね。
内田
海外拠点があって、あるべき正しい部品がしっかりと納入されることで、日本で組み立てて、良いソファができていくというモデル。これは他ではない?
八木
日本で比較的低価格帯のソファを量産しているというところは、私の知っている限りゼロですね。うちしかないですね。
内田
セルタンの場合は、1日何個作っているのですか?
八木
大体、ほぼ1日の売り上げ1千万円くらいですから、平均価格1万円くらいなので、1千台。
内田
1日に1千個売れる。その売れる理由は?中国で輸入してきたものよりも値段はちょっと高めですよね?
八木
1.5倍くらいですかね
内田
やはりちょっと高めじゃないですか。それでも買う人がセルタンを選ぶ理由をどんな風に分析されていますか?
八木
ひとつにはネット販売のおかげです。昔、私どもはほとんどホームセンターとか、そういうところに販売していたのですね。そうしますと、直接のお客さんというのは、ホームセンターのバイヤーさんになる。どうしてもお店の面積というのは限られていますから、その限られた面積の中で、最大の売り上げをやろうとすると、やはり安いものになってしまう。
内田
はい。
八木
ところがネット販売というのは、お客様の声が載るので、皆さんが選べる。ですから「安い方がいい」という方もいらっしゃるので、安いものも買いますし、「いや、やはり日本製のちゃんとしたもの欲しい」という方は日本製を買われるし、そういう「選べる商売」ということで、ネット販売というのが、かなり画期的な販売方法だと思っているのですけど。当初、我々としては、若い人向き、例えば大学生だとか、大学を卒業して会社に入ったばかりの人とか、そういうイメージだったのですね。でも、現実に売れているのは50歳とか60歳とか、そういう方も結構多いのです。まあこれは想像なのですけど、お父さんが家に帰って自分の場所がない、そうすると、「このソファが俺の場所だ」と。
内田
お父さんが、自ら自分の場所を作るためにソファを買う?
八木
お父さんが買う場合もありますし、お母さんとか、その、子どもたちがプレゼントするというのも結構あるんですよ。
セルタンでは、ウレタンを加工した後に発生する端材を、ソファの材料として使用。この端材をリサイクルすることで、材料費を低く抑えることが可能となります。粉砕した端材は、接着剤と混ぜて金型に投入、圧縮成型を行います。これを「チップウレタンモールド成型法」といい、日本では10社も行うことができない成型法です。継続的な取り組みにより、安定した供給ルートを確保することで、消費者に低価格で届けることが可能となりました。
八木
ほとんどの場合、リサイクルと言っても、実際には費用がかかっている。ですから、その出来上がった商品の価値よりも、それをリサイクルするまでの費用のほうが大きい。ところが軟質ウレタンというのは、50年60年くらい前からリサイクルが確立されていまして、商業的にペイするリサイクルなんです。リサイクルとしては優等生という。
内田
それを中身にすることによってコストダウンが可能になってきた。今後、このウレタンを使ったソファ作りというのは、どんな風になっていく?
八木
実は難しくて。その産業廃棄物の原料を使ったソファというのは、価格も安いし性能も良いので、もっともっと増やしたい。ですが、ゴミを出している会社は出したくて出しているわけじゃないですよね。そうすると我々はどんどんそれを使って、「もっと原料を出してください」と言っても、彼らにしてみれば、「いや、それは本来出したくないものだ」と。
内田
これ以上その産業廃棄物が、どんどん増えていくという見通しはないですよね?
八木
今の倍くらいのところで、原料的にはもう作れないだろうと。でも今後、その売り上げを上げようとしたら、やはりどこかでもう少し違うものを集めてきて、自分のメーカーとして自分が作ったものを売るというスタンスではなくて、どこかからそのいいテイストのものを集めてきて、それを販売するというパターンに少しずつ変わらざるを得ないですよね。
内田
売り上げを伸ばしていくというところ、企業の規模を上げていくというところは、やはりこだわるところですか?
八木
売り上げを伸ばすことにこだわるわけではないのですけども、私は実は小学校5年の時とそれから中学1年の時に、2回会社が倒産しているのですね。倒産していると言っても、一度倒産をして、会社更生法で更生会社になって、それがまた中学1年の時に廃止になって。やはり会社が潰れるということによってのいろいろな問題がある。そういうものを肌で感じているので、その企業というものは最低限、存続しなければいけない。潰れない企業になるために、安定した企業になるために、売り上げと利益は伸ばしたい。今年多分23億か24億円くらい。今、社内で掲げているのは「100億の企業になろう」と。年間売り上げが、100億円の企業にしよう。その100億売るということは、中小企業から、中堅に移行するという。その中堅と中小のどこが違うのかと言ったら、やはり組織の問題。そういう風にしたいと思っているのですね。
内田
なるほど。中小企業から中堅企業に。
八木
100億で中堅企業かどうかはわからないですけどね。
内田
一つの節目というところにはなりますよね。そこになると、何が見えてくるのでしょうね。
八木
何が見えますかね。本当にそれで安定するのかどうか、何とも言えないですね。ただ、売り上げだけじゃない。うちの場合は最低でも10パーセント、1割の経常利益。100億円売って10億の経常利益が出る状況が10年間、その割合で続いていけば、安定はするでしょう。その先は何があるでしょうかね。
セルタンのもう1つの特徴は、167名の従業員のうち、134名がアルバイトスタッフ、さらにそのほとんどが定年を迎えた高齢者です。
内田
セルタンさんの製造現場を拝見させていただいたのですが、シニアの方が元気に活躍されていましたね。これは、狙いがあってのことですか?
八木
実はですね、意図してそういう方を集めたわけではないのです。募集をしたらなかなか若い人が集まらなかった。出発点はアルバイトの募集で。例えば、セブンイレブンとかマクドナルドとか、ああいうお店は、店長さんが正社員で、あとは20人くらいがもう全部アルバイトさん。そういった形で成り立っているじゃないですか。それを我々みたいな製造業でもやろうということでアルバイトを集めたのですね
内田
最初はどれくらいの人数から、シニアの方の採用を始めたのですか?
八木
10年か15年くらい前は、アルバイトの人も多分20人とか30人くらいだったと思うのです。どの辺からシニアと言いますか?
内田
60歳くらいから?
八木
そうすると7割くらいじゃないですか。
内田
7割ですか。集まりましたね。多くの企業がこれからシニアを活用しようと、「1億総活躍」ということで、採用を考えていくと思うのですけれども、その採用の先輩として、シニアの活用はこんなメリットがある、ここはやはり気を使わなければいけないというところ、両方あると思うのですけど。
八木
元気は元気なのですけども、ちょっとした段差につまずくとか、それなりに歳をとったことによっての不便な部分というのは出てきますから、そういう部分の配慮と、歳をとられた方は今までいろいろな経験をしてあるので、いろいろな意味でのプライドがある。ですから、グループ化して、そのリーダーになって、というのは嫌う人が多いです。
内田
反対に、これはもうシニアの方というのは優れているな、と思う部分はありますか?
八木
簡単な話、例えば会社を休むときにはきちんと連絡とか。
内田
基本中の基本?
八木
もう、そういうものはいらないですから。
内田
若い方は急に会社来なくなったりしますものね。
八木
働くということに対する基本的なルールは理解しているので、そういう意味では楽です。
内田
そのシニアパワーで1日に1千個作っている。侮れないですね。皆さんきっと、そういう雇用の場、こういうやりがいの中で働けるというのは、きっと喜んでいらっしゃるのでしょうね。
八木
そのお金がどうのこうのというのは少ないのですけれども、やはり何か自分がどこかに所属していないと、何となく不安だと。だから例えば「1週間のうちに月曜日だけ働きます」と。「それでもかまわないので、アルバイトの籍を置いといてほしい」という声があがりましてね。忙しい時は、例えば1週間に5日間働く、暇になったら2日働くとか。そんな風な形が始まって、今のシニア活用みたいなものが定着したのですね。
セルタンのもう1つの特徴は、167名の従業員のうち、134名がアルバイトスタッフ、さらにそのほとんどが定年を迎えた高齢者です。
八木
今の1番のビジョンというのは「年商100億円」なのですね。そうするとその100億を売るためにはいろいろな問題がありまして。作る場所の問題もあるし、それから人の問題もあるし。それからどういうものを作って、どういうものを売って100億になっていくのかという問題もあるし。いろいろな問題があって、ゲームみたいですね。ですからまずそういうテーマを決めて、それを解決するために、どうしたらいいかというのをみんなで悩んで、進んでいくと。
内田
何か面白いもの、こんなことをやりたいという?
八木
例えば100億円売るときの、国内販売と国外販売の割合をどうするかで、私のイメージでは日本の中で約8割から9割は売るというイメージです。何故かというと、海外は当てにならない。海外は海外でやるんですけども、海外の売り上げを当てにしていると不安定だと。ところが「4割は海外でやりましょう」と。意見は意見ですから、いろんな意見が出てそれをどうやってすり合わせるか。
内田
これから日本市場はどんどんシュリンクしていくから、成長を望むなら海外の市場を求めなければいけないというのが一般的。そういう中で、「海外は当てにならないから、ちゃんと日本の市場の中で達成するビジネスモデルを構築するべきだ」という話はちょっと面白い。海外を知り尽くしているから?
八木
たぶんそうですね。
内田
そうですか。国内市場にはまだまだそういう伸びしろというか、セルタンが稼いでいく市場としてある?
八木
いくらでもありますね
内田
きっと何かイメージがあるんでしょうね?
八木
はい、内緒です。
内田
セルタンが目指していく企業の姿、ずっと存続していくのだという意味においての理念であるとか、やっていくことというのは、どういうものになりますか?
八木
実際に今、高齢者の方を雇用しているのも、どうしてもそういう人たちを雇用しようと言って始まったわけではないのですけれども、結果的に地域には何らかの貢献をしているのかと。自分たちだけでは何もできないので。厚木の地域、と言ったら海老名とか伊勢原の人に怒られますけど、県央地域に何か貢献ができたらいいなという風に思います。
tvkのYouTube公式チャンネルの「見逃し配信」では取材VTRも含め、インタビュー全篇をご覧いただけます。(視聴無料です)
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伸和コントロールズ株式会社
代表取締役社長 幸島宏邦さん
【プロフィール】
1939年長崎県佐世保市出身。
1967年 関西大学経済学部卒業、伸和工業株式会社(現・伸和コントロールズ株式会社)入社。
1992年に代表取締役社長に就任。
厳しい品質管理が要求される半導体の製造工程で欠かせない、温度や湿度を一定に保つ装置「精密空調」や「チラー」と呼ばれる製品で世界トップレベルの技術・シェアを持つ川崎市の伸和コントロールズ。農業用乾燥機のバルブ製造からスタートし、「電磁弁」や「電動バルブ」など、「流体」を制御する技術を核に成長を続ける同社を率いてきた幸島宏邦社長に変化の激しい業界で生き残る経営、独自の技術力について伺います。
内田
まず、伸和コントロールズという会社が何を作っているのか教えていただけますか?
幸島
創業の時にはバルブ。当時「ソレノイドバルブ電磁弁」というバルブの開発製造からスタートいたしました。その後、このバルブを使ったシステム、装置を作りたいということで、1980年代の半ばから、当時将来伸びるであろう半導体業界向けの装置を開発いたしまして。現在はその派生設計、派生をした製品を含めまして、大きく分けますと、電磁弁、バルブと装置。特に温調装置というものが、私どもの今ふたつの、分類されるアイテムでございます。
内田
温調装置というのは「温度を調節」する?
幸島
温度だけじゃなくて、空気の場合は湿度も調整をしておりまして。温度と湿度で精密空調装置、精密温調装置ということで装置分野を区分けさせていただいています。
内田
本当に精度の高い半導体を作ろうというニーズがありますよね?でも温調装置のそういう制御によって、それが実現するかしないかということなんですね。
幸島
ええ。私どもの装置が止まれば、もう装置全体が止まってしまうという、非常に重要な要素を。
内田
もう一体化していますよね。
幸島
そうなんです。
内田
半導体製造装置との一体化で、その中で御社のものが非常にシェアが高いと?
幸島
おかげさまで、ある分野については「世界一」のところもありますし。
内田
今その半導体、その浮き沈みの中で非常に好調だという風にうかがっているのですけども、御社の商品も非常に売れているという、そういう状況ですか?
幸島
今期6月が決算でございますけど、売上げ予測としては、約120億を超えそうな状況でございまして、前年比35%くらいの伸びなのですね。
内田
この背景は何ですか?
幸島
背景はやはり今の半導体そのものの範囲、使われる範囲が非常に広がってきたのですね。スマートフォンのデータ、それからまあIoTもそうですし、家庭の家電品についても、もう半導体だらけなのですね。車も半導体がなければ動かないという時代でございますので、ありとあらゆるところに、半導体が本当に使われてきておりまして。半導体が使われるということは、そのデータを処理しなきゃいけないという、データセンターが爆発的に今世界中に展開されてきております。データセンター側にコンピュータがいっぱい使われておりますので、またそこには半導体が使われるという。ですから本当に私どもにとっては恵まれた環境にたまたまいたのかなと。
内田
私の知っている限りだと、半導体業界というのは非常に浮き沈みが激しい。80年代から「日の丸半導体」と言ってものすごい、日本が世界の半導体業界をリードしたという時代がありました。そのあとは皆さんご存知のとおり、ちょっとこう、萎んでいったというか競争力を急速に失っていったという流れがあって、またさらに今ですね、新しいフェーズに入っていこうというところに見えるのですけども。こういう浮き沈みの中でどういう風にビジネスを維持していったのかというのは非常に興味があるのですけれど。
幸島
昔から半導体は「変動体」と言われていましてね。変化が常にあるものだという。この時代の流れに逆らうことでは大怪我をする。ですから常に「波乗り」と一緒で流れに逆らわない経営をやっていこうということが一つございます。そういったことで当然あの売り上げも波乗りでございまして赤字にもなっております。だけど「変動体」ですから、またすぐ回復するという、その強い思いがありましてね。一つ大事なことは、この波乗りですから、「谷間のときに何をしなきゃいけないか」ということが、段々わかってまいりまして。
内田
「何」をされないと?
幸島
それは同業者の半導体のメーカーさんたちが、常に開発ということに対してはお金をつぎ込んできておられまして。そこに向けて私どもの会社も開発投資だけは怠ってなかったのですね。
内田
その半導体製造装置のメーカーの、その開発というものに絶対手を抜かないと、同じように進化していったということですか?
幸島
ええ、もう同じように変化していきます。ですからリーマンショックが直近では一番厳しかったのですが、2008、9年、売上げが前年比2分の1以下に減った時代もございました、でもその間に、人材の採用も継続的にやってまいりました。開発も継続してやってまいりました。その結果が2009年の夏場になって、また回復基調に入ったときに、いの一番に、私どもの会社が復活できたという。だから先見性はなかったのですが、結果的ですよね。
内田
それはでも素晴らしい考え方ですね。一緒に波乗りをするのだという、抗わないと。
幸島
あの、サーフィンの世界でございますので。
人工透析装置を始め、医療分野での需要が高まっている「伸和コントロールズ」の電磁弁。今、新たに期待されているのが、宇宙での活用です。昨年、JAXAの宇宙ステーション補給機 「こうのとり」に新たに搭載予定の「小型回収カプセル」への採用が決定。「小型回収カプセル」は「こうのとり」から分離され、大気圏に突入した際に燃え尽きずに地上に帰還する計画で、電磁弁は大気圏に再突入したあと、カプセルの姿勢を制御する噴射バルブとして重要な役割を担います。
内田
非常に技術力が高いという風にお見受けするのですけれども、「こうのとり」に御社の技術が搭載されている。これはどういった経緯で採用されているのですか?
幸島
これはやっぱりルーツは、私も創業以来の農業機械用のバルブ。
内田
そこに遡るのですね!
幸島
遡って、その進化したものが今度の「コウノトリ」に採用されたという。その間の大きな進化というのは、私としてはあまり感じてはいないのですが。私どもの会社のルーツは、ローテクからスタートしています。ローテクが土台で、ハイテクは育てていくという、その組み合わせだと私は信じて今でもやっておりますので。
内田
様々なローテク産業が今も新しい技術に取って代わられて必要とされなくなっていく、時代に取り残されていくという現状がありながら、きっとバルブというものは替えがきかない、きっと他に代わる、取って代わるものがないのだろうというイメージがしたのですけど、どうですか?
幸島
バルブというのは多分、当分、未来永劫にバルブという名前は残っていくと思います。それが少しずつ進化をして、いろいろなものに応用されていくと思いますけど、今度宇宙まで行ってまいりますけども、これもやはりローテクのベースがあったからこそ、信頼性ということがもう当時から比べると、数十倍はあがっておりまして。材料の吟味ひとつとりましても、あるいは加工のひとつをとりましても、やっぱり当時とは全く進化はしております。だけどベースはローテクでございます。
昭和の頃に一般的だった暖房器具「豆炭あんか」。これをもとに片手で持てるサイズと軽さで新たにデザインされたのが、この「anka(アンカ)」。ステンレスを主体にしながら、温かみのある表情を備えた、古くて新しい暖房器具。実は、美術大学に通っていた学生が卒業制作として生み出したものなのです。完成には「メタルDIY」の存在が大きかったと言います。
内田
半導体の需要というのは、この先もどんどん伸びていくという、そういう見通しですか?
幸島
私がよくおしゃべりをするのは、「半導体の次は何ですか」ということを必ず金融機関さんは心配になって質問が出てきます。その時に私がお答えしているのは、「半導体の次は半導体です」と。
内田
なるほど。
幸島
それは半導体を作るだけではなくて、半導体を応用していろいろな機械、いろいろな装置が展開して、もっともっと展開していきます。その装置そのものに対しての我々のビジネスチャンスがそれぞれ広がっていくという風に見ています。
内田
今後、その半導体関連産業というものとずっと付き合っていくという流れの中で、どういう見通しで、社長として、何をこれからもっとやっていきたいのか、目標といいますか。
幸島
当社の取り巻く環境の中で、課題というのが二つございましてね。一つは、私ども「ものづくりの会社」でございますので、開発をして、製造して、販売をして、サービスまで、というところが「開・製・販・サービス」という、一気通貫をずっとやってまいりましたが、私どもでまだ抜けているのは、抜けているというより力が入ってないのが、最後にきました「サービス」。このサービスを世界中にどのように巡らしていくのか。これが結果的には、お客様の満足につながっていくという。物売りじゃなくて、そのサービスを売っていく会社にならなければいけないという、それが一つ大きな課題でありまして。今これを国内だけじゃなくて海外、中国も含め、韓国も含め、台湾も含め、アメリカもそうですけど、ひとつひとつ今、現地法人を、まず台湾と韓国に作りました。次は中国ということで、今度はアメリカも今、そういう準備をしております。そういったサービス体制というのが、私どもの会社の生き残る大きな要素かな、と思っております。もう一つが、私ども装置をやらせていただいていますが、装置の中の組み合わせというのは、結構「買い物」が多いのですね。外部から購入して組み立てていくという。バルブは自分たちのもので使いますけども、それ以外は、意外と買い物が多くて、私どもの欲しい部品というのはなかなか見つからないのが現状でございまして。要するにコスト競争力、品質競争力にも手を踏むときもございます。そういうものの、基幹部品といわれるものが何箇所かありまして、それを自前で、内製化していくという。それを開発するために、その舞台を私どもの川崎の本社に今度移転したばかりですけども、そちらで、ヒト・モノ・カネを使いまして立ち上げたいという。もうすでに一部、基幹部品というものは開発の部隊が出来上がっておりますので、これをもっと広げていって、アイテムをもっと増やしていこうと。これが世界の中で、やはり日本でものづくりをするという、そこの基本になるんじゃないかと思っております。自前主義というのですか。「基幹部品の自前主義」というのが二つ目の私どもの課題でございます。
内田
「脱自前主義」という言葉が日本のメーカーの中では、もうしばらく言われてきたのに、「そうじゃないんだ」と。やはりここに立ち返ってきているというのは何故ですか?
幸島
やはり品質。まず品質ですね。それから二つ目が技術流出という。非常に世界で戦うには、これは本当にね。
内田
深刻ですよね。
幸島
真似されないものづくりということが。
内田
すごく大事になってきますね。
幸島
もうそこが大事な、一番大事なところかなと思います。
内田
そういうエンジニアがいて、R&Dセンターも作り、というのは非常に頼もしいというか。
幸島
それをやるのが社長の役割かなと思いましてね。後は遊んでいてもいいかな、と思っていますので。やはり「磨く」というのは自分自身もそういうことで磨かれていきますので、課題に対しては常に経営者としてのチャレンジ精神というのは、いくつになっても忘れてはいけない、というのが、今日でございます。
tvkのYouTube公式チャンネルの「見逃し配信」では取材VTRも含め、インタビュー全篇をご覧いただけます。(視聴無料です)
「専業デバイスドライバ開発企業が作るセキュリティソフト」
サイエンスパーク(座間市入谷)
ゲスト
株式会社関東精密
代表取締役社長 杉田勇さん
【プロフィール】
1974年横浜市出身。
1993年県立神奈川工業高校電気科卒業後、横浜市内の町工場に入社。
2003年関東精密入社。
2007年に前社長から株式を取得し、代表取締役社長に就任。
日銀横浜支店が4月3日に発表した神奈川県の企業短期経済観測調査「短観」によると、製造業の景況感を示す業況判断指数はプラス14となり、昨年9月に行われた調査から3期連続の改善となっています。製造業に良い循環が伝えられる中、モノづくり企業の現場が抱える課題と現状とは。横浜市都筑区で金属加工業を展開する「関東精密」は、1972年から工具・治具の精密加工や自動車部品、金型部品などを手がけてきました。2007年に会社を引き継いだ杉田勇社長。今抱える課題と新たな挑戦とは。
内田
「関東精密」という会社は、杉田社長が2007年に、ある意味譲り受けた形で社長になられたのですね?
杉田
そうですね、はい。
内田
これは、どういうきっかけでしたか?
杉田
きっかけというのは、元々、先輩がその会社に先に入っていたのですね。その先輩が継ぐはずだったのです。「継いだ後に、お前が継がないか」ということで、引っ張られてきたのですね。それでしばらくやっていたのですけども、いざ継ぐとなった時に、先代と先輩の折り合いが合わなくなってしまって、急にプイッと辞めてしまって。それで、辞めてしまった後は僕しか残っていないので、「杉田君、お前どうだ」ということで。借金をしているので、個人で借金して、先代にお支払いしているという形。株を買い取るという形でさせてもらっているので、もちろん、借金からのスタート。やはり、先代自体が赤の他人ですから。バックボーンがあるわけでもないので。
内田
でも、そこで決断をしたと。
杉田
そうですね。
内田
そこはすんなりと?
杉田
すんなりなのか、少し悩みはしましたけど。その当時というのは、結構仕事自体が順調だったので、「この会社ならばいいだろう」と思い、少々軽い気持ちで継いだというのは確かにありますね。
内田
2007年当時、やはり日本経済も非常に好調だったという。
杉田
もうイケイケドンドンで、受注が凄く詰まっているという様な状態でしたね。「こんなにいい会社だったのだ」と。
内田
仕事がどんどん来ると?
杉田
はい。どんどん来るからと。何もしなくても仕事が来るという様なところがあったのですけど。
内田
それで、実際に(株を)買い取って経営者になりました。どうでしたか?
杉田
買い取った時、次の年がリーマンショックだったのですよ。
内田
2008年?
杉田
2008年。それで、最初はイケイケドンドンだったのですが、買い取った瞬間、次の年にガクンと落ちて、リーマンショックで逆に仕事がなくなってしまって。
内田
2007年の右肩上がりの時から、たった一年である意味どん底と。「これは話が違うよ」と、正直言って後悔したという部分はあったのではないですか?
杉田
ありましたね。「こんなにいい会社だった」と思ったのですけど、一年後にすぐお金がなくなってしまった。買い取った時のお金自体も、更に資金が底をついて、という形で。
内田
では、ある意味もう逃げ出したくなるというか?
杉田
もう、夜逃げまで考えましたからね。
内田
考えましたか。いきなり「営業に出て行かなければ」「仕事を見つけていかなければ」ということで杉田
さんは動かれたと。営業力だと言えば言葉としては簡単なのですけども、実際、そういう風に行動を伴っていくというのは、そう簡単ではないという風に思いますが?
杉田
なかなか難しいと思いますね。特に職人さんとかというのは、本当に「加工してなんぼ」、というような形で、集中していいもの仕上げるということに全力を注ぐような方たちが多い中なのですけども、僕自身、その製造業・町工場の方たちと繋がっていて思ったのが、技術は凄いのですよ。技術自体は凄いのですが、では「営業しているの?」となると、していないのですね。昔は仕事がたくさんあった時なので、皆さんが「ここにいい会社あるよ」と、一社を皆さんが紹介してくれるのですね。
内田
いい仕事さえしていれば、口コミでいくらでも紹介をされて仕事が来る、という流れがあった。
杉田
でも、今の時代というのは、仕事自体を出す方々がそのいい職人さんたちを紹介してしまうと、他の方たちの仕事で自分の仕事が出来なくなってしまう、してもらえなくなってしまう、という思いなのか、「紹介」というのが少なくなってきているのですね。やはり、「囲い込みたい」というのはあると思うのですよ。
内田
自分の仕事を優先的にやってもらうために、他の仕事を入れるとまずくなると。口コミがなくなっている?
杉田
だから口コミが少ないのではないかな、と僕は思ってるのですね。
内田
だからこそ、口コミがない分、自分たちで自分たちをアピールしなければと?
杉田
ということですね。その方たちに発信するために、「自分がここにいます」ということをきちんと発信していかないと、拾ってくれないのだというのは最近ちょっと感じていまして。自分たちでこの人に向けて発信できれば、的確に仕事の繋がりになるのではないか、とかいうこともきちんと調べないといけない。マーケティングというのですかね。そういうことも、やっていかなければならないと。
町工場の情報発信が求められる今、関東精密が取り組むのが、金属加工スペース「メタルDIY」の運営。工場のロフト部分を活用し、誰もが本格的な金属加工を体験できる場所として、クラウドファウンディングで実現。ボール盤や切断機、パイプベンダー、溶接機などの機材を設置し、杉田社長のアドバイスを受けながら自由に使用できます。
昭和の頃に一般的だった暖房器具「豆炭あんか」。これをもとに片手で持てるサイズと軽さで新たにデザインされたのが、この「anka(アンカ)」。ステンレスを主体にしながら、温かみのある表情を備えた、古くて新しい暖房器具。実は、美術大学に通っていた学生が卒業制作として生み出したものなのです。完成には「メタルDIY」の存在が大きかったと言います。
内田
「メタルDIY」。これは、どういうアイディアから?
杉田
元々は、自社商品を作りたくて。「enmono(エンモノ)」という講座、スクールですね。自分の中からアイディアをひねり出そうという鍛練の場所と言うのですかね、アイディアの講座があって。そこで「メタルDIY」というのは生まれたのです。自社商品を作りたかったのですけども、自分たちの会社にあるリソースで何かできるものがないか、ということで考えていった。あとは、その時の時代背景を踏まえて、どういうものにニーズがあるのかということをいろいろ調べていったところ、その当時3Dプリンターが出始めてきた頃、「どうやら3Dプリンターでなんかすぐ簡単に作れるよ」というような世の中の風潮があって。
内田
もう誰でも個人でも、ものづくりができるようになるよ、という?
杉田
はい。例えば、「コップだったらすぐ作れてしまうよ」の様な。
内田
「ものづくりの一般化」というものが生まれてくるという様なことですね?
杉田
という様な感じだったのです。
内田
それをどう受け止めたのですか?
杉田
「そんなことないだろう」と、少し思っていたのですよね。「そんなことはないんじゃないの」というのは思っていたのですけど、その中で、「では、その作りたい人たちは何をやったのだろう?」と。3Dプリンターはいいのですけど。
内田
「それで何を作りたいのだろう」と?
杉田
「何を作りたいのだろう」となった時に「あれ?」と。「金属ではない。木だな、樹脂だけだな」という形で。「鉄」となると、急に皆「できない」となっていったのですよ。
内田
木はできる、樹脂はできる。
杉田
はい。「樹脂もできる、プラスチックもなんとかできる、木はできる。あれ?鉄は?」となった時に、皆できないものだと思い込んでいるらしいのですね。それで、その当時からもDIYって「Do It Yourself」という形で。
内田
日用大工ですね。
杉田
そうですね、はい。それがもう流行りだしてきたところだったのですね。でも、その人たちにも「金属」というのは、なんとなくハードルが高かったというところがあったのです。それで僕自身が金属加工屋なので、当たり前の様に金属を加工していた中で、「いやいや、そんなの普通にできるよ」と思っていたのですね。と思ったところに、うちの工場のスペースでちょうど空いていた所があって、そこに「一般の人たちが気軽に金属加工できる場所を作って提供したらどうだろう」と思ったのです。そういうアイディアが浮かんだ、ということですね。それで、僕自身も教えることが嫌いではないので。
内田
ええ。
杉田
そういうことも一応できていたので。その中で、自分たちのリソースというか、スペースと遊休の機械と、自分が教えることができる、ということが相まって、そういうスペースをやったらどうだろう、ということで、アイディアとして浮かんだのです。
内田
そもそも「自社製品を作りたい」という思いがあって、「単なる下請け企業からメーカーに」という希望があったわけではないですか。でもそうは言っても、空間提供から始めよう、というところで、美大生との出会いがあり、ある意味「デザイン」というものとの出会いですよね?
杉田
そうですね。町工場は、品物は図面通りきちんと作れるけれども、ではその図面自体を作れるかという時に、なかなか作れない。工業製品の設計部門とかはありますが、デザイナーさんが作る様なデザイン性の高いものというのは、やはり皆無に等しい。作れない、デザインできない、というのはあったのですよね。
内田
それでお互いのニーズがすごく合致して?
杉田
デザイナーさん自体はすごくたくさんアイディアがあって、デザイン自体はできるのですけど、作る場所がない、ほとんど作れない。それで気づいたのが、そういうデザイナーさんとか、美大生卒業制作の方たちに向けてもっと発信していけたらなと思ったのです。その方たちが、やはり作れない、作る場所がない、というところに提供していくお手伝い。それで、その方たちでできないところは本業である関東精密がお手伝いする流れにしていく。「メタルDIY」を発信アンテナとして、本業の関東精密に流れる、という図式が最近できてきたのかな、という思いがありまして。「流れが変わってきた」「変えていかなければ」というところ。
イタリア・ミラノで行なわれたミラノデザインウィーク2017「ミラノ・サローネ」。ここに関東精密が制作した、金属のフラワーベース「TREE(ツリー)」が出品されました。その母体は横浜市近郊に工場を構える金属加工会社10社とデザイナーらで作る「Yokohama Makers Village(ヨコハマ・メーカーズ・ビレッジ)」。同業者やデザイナーとのコラボレーションの中で、新しい形のモノづくりを探り、世界へ発信しています。
内田
そういうデザイナーとのコラボレーション、どうですか?やはり面白いですか?
杉田
面白いですね。思いのデザインを形にしてあげられる、お手伝いができる、というところは、やはりできた時の喜びというのが同じなのですよね。僕も嬉しいし、お客さんも嬉しいという。それが目に見えて売れるものじゃないですか。目に見える品物ですよね、人の手に触れるもの。僕らの世界では、工業の製品とは人に触れることが少ないのですよ。
内田
そうですね。
杉田
金型だったり、工作機械だったり、車の部品を作っている機械の部品だったりするので、世に出ることがないのですね。それが、デザイナーさんは本当に消費者、その方たちに繋がっている。直接形に、目に見えている形のものなので、できたときの喜びというのが凄く違いますよね。
内田
そういう方たちを通じて、自分たちの技術力を伝えることができる?
杉田
はい、ですね。
内田
本当に、願ったり叶ったりの関係になりうる可能性がある?
杉田
ありますね。そのためには、お互いが50対50じゃないと、やっぱりどうしても続いていかないのですね。
内田
その間口を、これからもそれだけに留まらず、様々な可能性をきっと探っていかれるのだろうなという風に思うのですけども。日本のこれからの、そういう中小企業のものづくりの現場というのは、どうなっていくという見通しで?こういうことをしていかなければいけないというのを、杉田社長のビジョンとしてはどのようにお考えですか?
杉田
現状自体は、自分、会社、日本全体から考えると、やはり仕事量は減っていると思っているのですね。僕らの会社が思う、感じるところはですね。
内田
それは、海外に出ていってしまっている、ということですね?
杉田
そうですね、海外です。地球規模で工場は「ここがいいね」と考えていらっしゃるので、大手さんとかは。その中で日本は工場としては適していない、という考えなのかもしれないですね。量産だったりというところで。
内田
全体最適、ということですよね。
杉田
その考えでいくと、日本からの仕事というのは少しずつ減っていく。ですが、それ以上のスピードで町工場自体が減っていっているのですね。「なくなっている」というのが、感じているところですね。それは後継者問題とか、先ほどの、営業できていなくて腕がいいのに廃業してしまうとか。あと、事業承継ですよね。そこの問題があって、もうどんどんなくなっていく。仕事が減るスピードよりも、それ以上のスピードで、やる会社さんがなくなっている。
内田
作り手がどんどん、どんどん減っていっている?
杉田
というイメージがあります。実際調べたわけではないですけど、そういうイメージ、感覚はあります。そうなっていくと、より一層「自分がここにいるよ」「ここで、こういうことをしているよ」という発信をきちんとしていかないと、皆さん気づいてくれないのかな、というのがありますね。
内田
ではどうしたら、良い様に生き残っていけるのでしょうか?
杉田
やはり社内の体制、生産体制をきちんととれていればいいのかなと思うのと、後はその行く行くの、ものづくりの裾野を広げるために、ものづくりに興味を持ってもらって、それで、そういう製造業に就いてもらう様な方たちを、気が長いですけれども、増やしていく、作っていく。
内田
ファンを増やす?
杉田
そうですね。ものづくりのファンを増やす、という様なイメージですね。デザイン自体も、皆さん、フリーソフトというのがあって。CAD、パソコン上で描ける。立体物がパソコン上で描ける。それが、フリーソフトで今、気軽にできる様になってきているのですよ。それができる方たちが増えてきているので、では「それを形にしたい時にはどうしたらいいの」という時には、うちみたいな工房とか、いろんなところでファブラボの様な作る場所があるのですね。そういうところで具現化していっている。そこで満足する方もいらっしゃいますし、そこでは飽き足らず、「これを商品化したい」という方たちが、どんどん増えてきていると思っているのですね。
内田
ものづくりがどんどん一般化してきて、誰でもできる様になってくるというので、高度な日本のものづくりというものの価値がどんどん低下していく、というイメージが当初はあったけれども、そうではなくて、いろいろな人がものづくりができるようになってくると、「ではどうやって作ろう?」というニーズが出てきて、ある意味、関東精密のような場所が必要とされてくる様になる?
杉田
と思っています。そのための情報発信、「こういうことができる場所があるよ」というのを、どんどん進めていこうと。そうすると、「あ、できるんだ。ではもっともっと作っていこう」と。アイディアが溢れている人が、どんどん溢れて、作りたがっていますから。そういう方たちが増えてきている、というのは少し感じているので。
内田
そこにしっかり繋がる。
杉田
はい、そこに繋がっていければと。新たな市場ですよね、うちとしては。
tvkのYouTube公式チャンネルの「見逃し配信」では取材VTRも含め、インタビュー全篇をご覧いただけます。(視聴無料です)
職人技でヘルメットの名入れサービス「HelNet」
北上産業(横浜市)
ゲスト
株式会社横浜環境デザイン
代表取締役社長 池田真樹さん
【プロフィール】
1971年 横浜市出身。
1995年 東海大学工学部電気工学科 卒業、
1998年横浜環境デザイン、
2012年 福岡環境デザイン設立。
2015年 独アドラーソーラーサービス社との合弁会社アドラーソーラーワークス設立。
今月(2017年4月)1日に施行された「改正FIT(フィット)法」。再生可能エネルギーの普及を目指した固定価格買取制度「FIT」の実施を規定する法律が5年ぶりに改正されました。買い取り価格の変更の他に、注目されているポイントは「認定」の基準。これまでは設備への認定だったものから、事業計画に対する認定へと見直しが行われ、既存施設への認定取り消しも含めた厳しい基準が設けられます。
内田
横浜環境デザインという会社ですが、どういうことをされているのですか?
池田
簡単に言いますと、太陽光発電システムの設計と販売と施工、ということになります。
内田
それは個人向け・事業者向け、両方ですか?
池田
そうですね。元々は個人向けでしたけど、今は大きなメガソーラーから、住宅の屋根の上まで。いろいろなものをやらせていただいています。
内田
そういうことを、かなり早い段階から池田
さんはやっていらっしゃると?
池田
はい。創業でいくと1998年になりますので、ちょうど19年になります。
内田
太陽光発電の事業を90年代からやっているというのは、なかなかないですよね?
池田
そうですね。結構少数派だと思います。
内田
何故、太陽光発電に目を付けられたのですか?
池田
元々、大学の勉強で電気工学をやっていたというのもあって、大学で太陽光発電自体を目にしていましたので、元々興味があって。ただ、宇宙用とか灯台とか、そういうところで使うものだと思っていたのですけど。
内田
人工衛星とかに搭載されて?
池田
ええ、そうですね。それが、たまたま見た新聞で住宅用でも販売されている、というのを見まして。「面白そうだな、是非やってみたいな」と思って、サラリーマンを辞めて、始めました。
内田
辞めてしまいましたか。
池田
ええ、辞めてしまいましたね。
内田
会社を辞めて「これだ!」と思ってやり始めた。最初はどういった形で事業をスタートしたのですか?
池田
今でこそ大きなものが多いですけど、当時は住宅の屋根の上に付けるという形で、国からお客様が補助金をもらって取り付ける、という事業でしたので、まずは太陽電池、当時非常に高価なものだったのですけど、「付けてもいいよ」というお客様を探すところからスタート、という形になりますね。
内田
当時、家に付けるセットだと、どれくらいかかったのですか?
池田
よく私たちは「3キロワット」と言うのですが、家の屋根に付けるのにちょうどいいサイズですけども、それで大体1,000万円くらいしていましたね。
内田
それが随分変わってきた、ということなのですけども、転換点というのは、やはり東日本大震災ですか?
池田
そうですね。東日本大震災が2011年にあって、その翌年、2012年から、いわゆる「再エネ特措法」、私たちは「FIT法」と言っていますけども、そのFIT法が始まって、一気に、普及が凄いスピードになってきた、という形になります。
内田
そこで「太陽光エネルギーだ!」といって参入してくる業者というのは、やはり「これは儲かるぞ」と。「お金儲けだ!」というところの動機がすごくあったと思うのですけれども。ここはどうご覧になっていたのですか?
池田
同じ業界なので、あまり悪く言うのもあれですけど、やはりFIT法で売電単価が決まって、投資されると非常に高利回りで回る、ということになりましたので。
内田
もう、金融商品みたいな売り方をしていましたよね?
池田
そうですね、金融商品だと思います。「太陽光発電をやる」という大義がない中でやられる方が大勢いらっしゃるので、様々な問題が生まれました。一方そのおかげで、ものすごい勢いで普及もできたので、商品のコストダウンとか、そういうのも図れましたので、デメリットばかりでもなかったのかな、と私は思っているのですけど。
内田
1,000万円セットとしてかかっていたものが、今は大体どれくらいに?
池田
販売店さんによっても違うとは思うのですが、当時、3キロワットで1,000万円くらいだったのが、今だと大体120万円くらいでは購入できるのかな、と思いますね。
内田
ここが大きかったと。
池田
はい、そうですね。
内田
そういう意味では玉石混交と言いますか、ワッと一気に盛り上がった分、様々な問題もあるのだろうな、という風にお見受けしているのですけれども、どの様な問題がこの中で起こってきましたか?
池田
そこまで沢山の工事をする会社とか人がいたわけではないので、急に始めて急に工事に携わることになった様な会社さんとか人が、たくさんいらっしゃると思います。
内田
太陽光パネルはどんどん量産できるけれども、施工の部分が追いつかなかった?
池田
そうですね。それで結果として、施工不良になってしまったりとか、そういうことも問題だったと思います。
内田
認定事業ですよね?ということは、すごく甘い形で始まったということですか?
池田
途中で少し変わりましたけども、始まった当初はものすごく甘くて。計画だけして、申請さえすればそれ自体が認定される、という形になっていました。工事が途中で止まってしまったりとか、業者そのものが倒産してしまったりとか、そういった問題は結構ありますね。
内田
それで解決方法として生まれたのが今回の改正FIT法。これは、どういう改正になっているのですか?
池田
簡単に言いますと、これまで計画を認定する「設備認定」と言っていましたが、今度の改正FIT法は「事業認定」というものに変わります。ですので計画を立てただけでは認定してくれなくて、実際にその話を進めていって、最終的には電力会社さんと契約を結ぶのですけど、この電力会社さんと接続契約を締結する。そこまでやらないと国は認定してくれない、ということになります。ある意味、「本当に発電所を造ろう」と思う人だけが今後は認定される、という形になります。
内田
なるほど。そうすると、かなり淘汰されるというか、整理されるというイメージでいいですか?
池田
詳しくは分かりませんが、相当数が整理されることになると思いますね。
様々な課題を背景に行われた今回の法改正。事業継続のために求められる条件の一つが、効率よく発電し、施設を維持するためのオペレーションとメンテナンス「O&M(オーアンドエム)」の義務化です。横浜環境デザインは、ドイツで太陽光事業を展開していた企業と合弁会社「アドラーソーラーワークス」を設立。メンテナンス専門のスタッフが発電所を定期的に訪問し、特殊な機器を用いた検査を行うなどのサービスを実施し、差別化を図ってきました。
全国で広まってきたメガソーラーなどの太陽光発電所。近年では、新しい形の施設が生まれています。千葉県匝瑳市(そうさし)の丘の上にある太陽光発電所では「ソーラーシェアリング」と呼ばれ、農地の上にソーラーパネルを設置し、農業生産を続けながら発電もするという「営農形の太陽光発電」を行っています。
内田
農地の上にソーラーパネルを付けてしまう。これはどういう発想からきているのですか?
池田
日本の場合、耕作放棄地が多いとか、そういうところを使って発電したら良いのではないか、というところですね。元々平らだったりもしますし、作物ができるわけですから、日の当たりがいい。農地になるところは太陽光発電にもいい、ということになりますよね。
内田
条件が揃っているわけですね。確かに日本で耕作放棄地がいっぱいありますから、これをどう活用するかということは課題ですね。
池田
例えばこの神奈川県も農地がたくさんありますけども、神奈川県ですと、土地の値段とのバランスでメガソーラーというのがなかなか造れない。農地の上でしたら、神奈川県内でも十分可能だと思いますので、私はかえって都市部の方が、このソーラーシステムというのは普及する可能性が高いのではないか、という風に思っているのですけど。
内田
いろいろなアイディアが出てきていると思うのです。特にこの改正FIT法で一回リセットされる。そうするといろいろなビジネスを思いつく方がいる。「施工に強いよ」「自分たちは真面目にずっとやってきたよ」というのが池田
社長の会社なのですけれども、ライバルと言いますか、差別化が難しくなってくる。敢えて聞きたいのですけども。そこはどう対抗しますか?
池田
いい会社がいっぱい出てくること自体は、業界にとっていいと思うのですが。
内田
いいお答えですね。
池田
長くやっているだけではなくて、私たちは開発から工事、販売、その後ろのO&Mと言うのですけど、「メンテナンス」ですね。メンテナンスまで一貫して、我々の方で提供できる、というソリューションを持っていますので、その辺が、他社さんに比べて差別化できるところになるのかな、という風に思っています。
内田
一貫したサービスができるところは意外と少ない?
池田
そうですね、意外と少ないと思います。
内田
「メンテナンス」というところを詳しく聞きたいのですけど、今までのパネルは、どうしても造ったままで放置されて、実際どれだけ発電されているのかとか、検査をする方法もなかなか、大きいのを造れば造るほど難しいという話を聞いたことがあるのですけども、実際、どうなのですか?
池田
今度の改正FIT法ではメンテナンスも義務化されますので、また流れが変わってくると思います。当初、この辺は置き去りにされたまま発電所の建設が続いていました。それで、我々としては長年やってきていまして、太陽光発電というのは決してメンテナンスフリーではなくて、メンテナンスがしっかり要るものだ、という風に認識していましたので、早い段階でドイツへ行きまして。ドイツは先輩ですのでね。ドイツの市場で、メンテナンスがどの様に行われているかというのを見てきて、ドイツでO&M、オペレーション&メンテナンスのサプライヤーと言うか、プロバイダーを提供している会社と知り合って、その会社の技術や経験を早く日本に持ち込みたい、ということで合弁の会社を立ち上げて、日本で開始した、という形になります。
内田
きちんとメンテナンスを義務付けていくということは、それを提供する会社としてもビジネスチャンスと言いますか、そういうものが広がっていく、ということですか?
池田
これだけたくさんの太陽光発電所ができていますので、それをメンテナンスする会社の仕事というのも、当然必要になってくると思います。今後は我々にとっても、一つの大きな柱になっていくのかな、と思っています。
大規模なメガソーラーの建設が全国で広がってきた一方、今後は都市部の住宅向け市場の伸びが期待されています。太陽光発電システムの導入や省エネ性能を上げることで、年間の消費エネルギー量の収支がゼロとなる住宅「ZEH」(ネット・ゼロ・エネルギー・ハウス;ゼッチ)が2020年にまでに標準的な新築住宅で義務化されることが示されていて、住宅への太陽光パネル設置の増加が予測されています。
内田
個人の住宅もこれから大きく変わっていくという意味で、ZEH(ゼッチ)、「ネット・ゼロ・エネルギー・ハウス」というものが標準化されていく、という話なのですが、ここはどう関わっていくのですか?
池田
「ネット・ゼロ・エネルギー・ハウス」が今後標準化されていくわけですけれども、「住宅で使う一次エネルギーをどう削減していくか」というのも非常に大きなテーマでして、ここに我々が取り扱っている太陽光発電のシステムが必要になってきます。この辺で、我々と一般のお客様、もしくは場合によっては工務店さんとかビルダーさんとかと関わりを持って、この太陽光発電の普及をしていきたいという風に考えています。
内田
将来的には、それがどう進化していくのでしょうか?
池田
今は電力会社さんから電気が来るというのが当たり前になっていますけど、最終的には、家に発電する太陽光発電が付いたり、蓄電池で電気が貯められたり、地域のコミュニティー、自治体レベルでもいいですし、もっと小さい単位でもいいと思うのですけど、そういったところでエネルギーの融通ができる、電気の融通ができる様な、そういったやり取りができるコミュニティーで、地産地消と言いますか、その中でエネルギーを作り出して、その中で消費・管理していく、という形かと思っています。
内田
電気が無駄なく、皆で使える、というイメージですか?
池田
そうですね。
内田
それをあちらに送る、こちらから貰う、という差配をするということは、どうしたらできるのですか?
池田
今、新しい言葉ですが「アグリゲーター」という事業、業種があるのです。「アグリゲーション=束ねる」というところからきていますけども。そういった形で、地域のエネルギーを束ねて管理して、融通し合ったりする、ある意味司令塔の様になって動かしていく、という仕事が今後出てくるだろう、という風に思っています。
内田
これは一つのビジネスとして成り立っていくものですか?
池田
例えば「電力が逼迫している」「明日足りなくなります」という連絡が来ます。そうするとそのアグリゲーターは、あらかじめ契約した家やビルだったり、企業だったりするのですが、そういったところに「明日、13時から14時まで電気が足りないので、節電してほしい」という指令を出す。もしくは、強制的にコントロールしたりもするのです。本来であればその家がその時間に300キロワットアワー使うとしたら、それを節電してもらって200キロワットアワーにしてもらう。つまり、通常よりも100キロワットアワー少なくなる。この少なくした分に対してインセンティブが電力会社などから貰える、というビジネスになりますね。
内田
上手くそれをオペレーションすればするほど、いいビジネスになっていくし、地域のためにもなるし、省エネにも帰するという。なかなかそれはやりがいのある仕事ですね。
池田
そうですね、非常に新しい仕事だと思いますね。
内田
新しいですね。これからまだ、横浜環境デザインがずっと長く成長していく、というイメージで、どの様なことをやっていきたいですか?
池田
「再生可能エネルギー」、この太陽光発電が本当の意味で、人類のメインの主たるエネルギーにとってかわる、というのが会社のミッションになりますので、できる限り会社も長く続けて、今は過渡期というか変換期だと思いますので始まったばかりですけども、ゆくゆくは、何かを燃やして温暖化ガスを出したりしないで、持続可能な形でエネルギーをクリーンに使える、という社会を作るのがミッションなので、引き続きそういうミッションで皆で頑張っていきたいと思っています。
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