神奈川ビジネスUp To Date
ゲスト
岩井の胡麻油株式会社
代表取締役社長 岩井徹太郎さん
1967年 慶應義塾大学商学部 卒業、株式会社伊勢丹 入社
シンガポール(アポロ店店長)、フランス(パリ駐在事務所長)
1998年 モスキーノジャパン社長就任
2001年 岩井の胡麻油 入社
2005年 代表取締役社長 就任
こだわりの胡麻油をつくり続ける「岩井の胡麻油」を特集。横浜市内はもちろん全国の名店から高い評価を集める岩井の胡麻油。原料となるゴマは99%以上が輸入という中で、焙煎・圧搾・静置・濾過という伝統的な製法を守り続けている。八代目・岩井徹太郎社長が挑んだのは、ブランディングの再構築と組織改革。老舗企業の経営革新を探ります。
内田
胡麻油を作って160年ということですけども、胡麻油というのは、非常に日本人と共にあると言うか、密着している食品なんですね
岩井
胡麻自体は縄文時代の化石からも出てきているぐらい古いんですよ。ですから紀元前から、いわゆる胡麻油の薬効とか、健康に良いという部分でも着目されて、使われてきているのが胡麻油なんです。
内田
「岩井の胡麻油」というのは、どこに違いがあるのですか?
岩井
私ども千葉の佐倉で創業してから160年、胡麻油一筋でやっておるんですけれども、胡麻油というのはメーカーによって微妙に製造工程が違うんですよ。うちは胡麻油の搾油の伝統を頑に守って「圧搾法」というギュギュギュッと押しつぶして作る。胡麻の原料というのはうちでも10カ国から入ってきていますから。
内田
そんなに多様なのですか。
岩井
ですから入ってくる国と時期によって、皮の厚さも油分も水分も、夾雑物と言って、石ころだとか砂とか、そういった交じり具合も全部違う。それを同じ条件でダーっとやれば、それは簡単に出来るのですけども、そうすると美味しい風味香味の抜群な胡麻油というのはできない。それでうちは、一つ一つ丁寧に、全部クリアして、それで伝統的な作り方をしている。
内田
その胡麻油の市場というところで見ていきたいのですけども、需要というのは伸びているのですか?
岩井
ええ、年率で最低1%は伸びているんですよ。去年辺りだと前年比6%ぐらい。これは荏胡麻とか亜麻仁油とか、健康油がちょっとブームになりまして、それで胡麻油の需要がワーッと再認識されたというか、やはり「胡麻油がいいねということで。
内田
やはり日本人はすごく胡麻が好きで、胡麻の需要がちょっと前までは世界一で、今、中国に抜かれていると。胡麻の輸入が大体16万トン。
岩井
約半分が胡麻油、半分がすり胡麻とか練り胡麻とか加工胡麻と言っていますけども。
内田
胡麻油を実際使っているユーザーというのは誰になるのですか?
岩井
いわゆる家庭の主婦がお料理に使う家庭用。それから業務用と言いまして、天ぷら蕎麦屋から始まっていわゆるレストラン・料理店需要と、それから焼肉のタレとか胡麻ドレッシングだとか。
内田
食品加工メーカー。
岩井
それから輸出ですね。日本の胡麻油というのは、品質的には世界一ですから、世界中で非常に高い評価を受けている。
内田
胡麻油の需要は、この先どうなっていくのでしょう?
岩井
5年ぐらい前にオリーブオイルと胡麻油の市場規模が逆転したんです。パンに付けて皆さん召し上がって、そういう風なことで逆転しまして。ただ、胡麻油も同じように、例えばキャベツを切って胡麻油をかけて塩コショウをパラパラでおいしいキャベツサラダ。これは焼肉屋さんの今ベストセラーですけども、そういった使い方を、どんどん皆さんがしていただくと、「胡麻油ってすごく便利でおいしくて、使い勝手がいいわね」という形になるので、裾野がグッと広がってくるとまた違った展開になるのかなと。
内田
まだまだ成長していく?
岩井
まだまだ、可能性はあると思いますね。
大学卒業後から伊勢丹に勤め、長年海外勤務も経験した岩井社長。2001年に岩井の胡麻油入社後、再構築プランを打ち立て、経営改革に臨んでいきました。大きな転機は2005年、岩井社長が決断した本社・工場の移転です。
内田
160年の老舗ということですけれども、老舗企業もずっと経営が安泰だったという会社はとても少なくて浮き沈みがある。岩井社長が伊勢丹に入りながらも「岩井の胡麻油」に戻ってきたという、そこにもやはり会社の危機感があった?
岩井
かなり業績が低迷して赤字続き、新しいものへのチャレンジも欠けて、「このままだったらもう後がない」と。
内田
そのときに目の当たりにした現状、それに対し何をされたのですか。
岩井
もうやらなきゃいけないこと山積みだったものですから。例えば工場が大正時代からの工場で、吹き晒しの中で、床5~6センチ、油と埃と土で、食品メーカーでこれはないだろうと。だから工場の連中になんとかきれいにしろと。そうしたら、「何言ってんだ、この若造が」みたいな。
内田
まだ来たばかりですからね。
岩井
「何にも知らないで、何を言うんだ」と。だから、「じゃあ、わかった。俺がやろう」とノミを持って、手で削って、コンコンやりながら、「ほら、きれいになったじゃないか」と。そういうのが、何箇所かあったんですよ。
内田
そういうものと根気強く付き合いながら、でも会社を少しずつあるべき方向にしていって、大きな転機になったのが移転。社長が16年前に入社されて、移転に踏み切ったのが12年前の2005年ですね。これで何が変わったのですか?
岩井
移転を機会に会社を再構築して変えよう、これはもう千載一遇のチャンスをもらえたと。それでオープニングレセプションの時に「工場案内をあなたたちがやるんだよ」と。
内田
でも今までやったこともない?
岩井
お客さんに挨拶も必要ないような会社でしたから。ユニフォームも新しくして、きちっと挨拶をしなさいと。それで会議室でロールプレイまでやって。そうしたら結構、みんな乗ってくるんですよね。和気あいあいとやっているの、「これはうまくいきそうだな」と。
内田
そうですか。そんなにやはり変わる?
岩井
「変わらなかったら、うちの将来はない」という危機感はありましたね。
内田
老舗企業の八代目として、その企業が存続していくために何が必要なのかと問われたときに、何と答えますか?
岩井
非常に難しいのですけど、やはり人。「人・もの・金」と言いますけど、どちらか駄目でも会社はうまくいかないと思うんですよ。「人・もの・金・情報」というのがうまくバランスがとれないと駄目だと思うのです。最近、私もちょっと歳なもので、「後継者をどうするんだ」とよく聞かれるのですが、後継者も息子がなんとか目途もつきましたので、どうやって火を絶やさないでやっていくかというのは、人をいかに育てて。
内田
繋いでいくか。
岩井
それが一番かなと思いますね。
工場移転と共に行った改革で大きく変化した岩井の胡麻油。岩井社長が企業経営で貫くのは「伝統 守・破・離」の精神。残すべきものと、変えるべきもの。伝統を受け継ぐ老舗企業の本質、そして、岩井の胡麻油が見据える未来の姿とは。
内田
伝統を「守・破・離」、守る、破る、離れるというものが大事でそれを実践した。これは具体的にどういうことをやったのですか?
岩井
会社を引き継いだときというのは、例えば前任者に対する反対、Noの発想から入っていく。伝統のある会社ほど、そういうNoの発想で伝統を壊すことが自分の仕事だと思う人も多いわけです。伝統というのは、まず守って、自分できちっと理解をしなかったら伝統が活きてこないのですね。それで、きちっと守って、自分が全部マスターをしたらそれを破って、その伝統から離れて新しいものを作りあげる。よく、二代目三代目で親父の跡を継いで社長になって、その親父否定から入っていって、それで企業を駄目にしたという話はよくある。やはり、「親父が苦労してやってきたことというのは何なのだろう」というのをまず守って、理解をして、それでその上に立って、「次はどうしよう。ああ、こういう風なことをやればいいじゃないか」と。だから、うちの缶があるのですけど、この缶も「もう止めた方がいい」とか「古臭い」というのもあったのですけども。
内田
あの素敵なレトロなデザイン?
岩井
いろいろな調査をしてみると、やはりこれはもう、他には代え難いということで、この伝統はきちっと守って、きちっとしたブランディングをもう一度、再構築するべきだと。誰が何を言ってきても「もう変えませんよ」とやったのですけど。その辺がいわゆる「守る」という、一つの大事なところじゃないかと思います。
内田
それを踏まえて、自分たちの守るべきものをちゃんと理解した上で「破る」。革新していく。新しいものを追求していく。
岩井
最近思うのですが、私の代でその伝統を破るというのは、なかなか難しいなと。やはり若い人たちの発想とか考え方だとか、そういうものちょっと付いていけない。今の時代があまりに早く変わるので、それは若い連中に自由な発想で考えてもらって、最終的にジャッジを僕が下すとしても、そういう方向性というのはある程度、若い連中が。
内田
考えていく。
岩井
と、多分良いものが出てくるんじゃないかなと思うのですけど。
内田
その部分はある程度新しい世代に託して「破る」と。最後の「離」というところは?
岩井
いわゆる本道から離れて自分の新しいものを作り上げる。次の代が、例えば「胡麻油はもういいんだ」、「これで」というもの、確固たるものがあるのだったら、僕はそれでもいいと思うんですよ。次の時代を考えたら、胡麻油は胡麻油で残すけれども、「こっちの方が新しいコアになります」というものが、もし出てくるとすれば、それはもう離れて、別会社を作るなり、やり方はいろいろありますから。そういうのは、若い人たちの自由な発想でやればいいのかなと。
内田
今後の「岩井の胡麻油」、どんな会社になっていくのか。やはり200周年を目指していくということですね。
岩井
老舗の暖簾を大事にして、自分たちの作っている商品を大事にして、それを評価していただけるお客様に対して、誠実に応えていくというのがきちっとできれば。そしてお客さんというのは国内だけじゃなくてグローバルにも求めていく。
内田
200周年を目指すというところで、社員の皆さんに期待するところというのはどういうところですか?
岩井
うちの伝統である、誠実、真面目、コツコツ、それから、ニコニコ、キビキビ、ハキハキという良い伝統を残しながら、僕の理想は、会社というのは、社員が家族みたいに、みんなで和気藹々と生活ができれば、それが一番だと思うのです。そのためには、収益をきちっとあげて、それで経営基盤をしっかりしないと駄目だと。みんなが幸せで働ける会社が、僕の理想なのですけどね。甘いって言われるかもしれないですけど、そういう会社があれば、これが一番良いと思います。
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ゲスト
株式会社江ノ島マリンコーポレーション
代表取締役社長 堀一久さん
【プロフィール】
1966年 東京都出身
1989年 慶應義塾大学経済学部卒業
2002年 住友信託銀行勤務を経て、現・江ノ島マリンコーポレーション入社 専務取締役就任
2004年 代表取締役社長就任
2014年 江の島ピーエフアイ 代表取締役社長就任
年間180万人以上が訪れる「新江ノ島水族館」を特集。相模湾大水槽を中心に、イルカやクラゲ、シラス、深海生物などユニークな生き物たちが人気を集める「えのすい」。しかし、2004年のオープン以来、来館者数は減衰し120万人にまで落ち込んだ。大きな転機は開館10周年を迎えた2014年。ある取り組みが成果をあげ、来館者数は劇的なV字回復を遂げた。「振り返れば波乱万丈、感極まる思い」と話す堀一久社長。「えのすい」の人気を支える経営戦略と海洋研究に挑む情熱に迫ります。
内田
こちらの「えのすい」、1954年にオープンということで、できた当時は日本の近代水族館初という、大変話題になったそうですね。
堀
はい、私の祖父にあたります堀久作が創始者になるのですが、当時、映画会社・日活の社長をしておりまして、この湘南海岸をお休みの日にドライブしていたんですよ。絶景じゃないですか。この風光明媚な風景を見て、祖父は大変感動しまして、「そうだ、この地に映画とはまた別の娯楽を作ろうじゃないか。じゃあ何か海にまつわる施設を作ろう」と。そのドライブが昭和27年だったと思うのです。それで「やろう」と思って2年後に近代的水族館第1号と。
内田
そこからずっと1980年代まで非常に人気があったというところから、経営がだんだん厳しくなっていったという時代に入り、一時期は年間20万人まで落ち込んだという中で、堀社長は当時、信託銀行にお勤めだった。
堀
「この家業を継ぐために、どういう企業にお世話になるのが最適か」ということで、信託銀行さんにお世話になりました。大変勉強になりましたし、ずっと融資業務をやらせていただいて、いわゆる「企業の財務とはどうあるべきか」というのを、その時にしっかりと勉強させてもらったのですね。
内田
まさに「準備は万端」というところで戻ってきた。
堀
準備万端で戻ってきて、自分の会社の財務書を見たら「はて、これは一体どういうことか」と。
内田
さすがにびっくりされました?
堀
もちろん母である社長が一生懸命、私が入るまで必死になって繋ぎ留めてきて、頑張ってきた、その苦労がにじみ出るようなものではあったのですけども。ただ、一番重要なのはやはり資金繰りになりますし、その資金繰りの源は銀行さんからのご融資を受ける。そこは懇切丁寧に私が銀行さんに将来ビジョンというものをしっかりとお示しして。こうなったときには必ずこうなるから、ここの期間だけのご支援が一番重要な部分だということは、今まで自分が融資をやってきて、やはり経営者の方がどういうビジョンを持ってこの事業に取り組むかというところが最大の、融資をする上でのポイント、今まではその見極めをやっていたものが、立場が逆になるわけですよ。もう平身低頭、頭を下げまくってですね、毎日頭を下げて、いろんな銀行に行って、何とか資金をご支援していただいて。
「新江ノ島水族館」は敷地が湘南海岸公園の中にあり、神奈川県の「民活事業(PFI)」として運営されています。神奈川県と藤沢市、民間企業が連携して事業を進め、「特別目的会社江ノ島ピーエフアイ株式会社」に委託。日本でも前例のない水族館経営のカタチを探る中で、新江ノ島水族館がたどってきた道のりとは。
堀
湘南海岸、今非常に綺麗に整備されていますけども、1985年に神奈川県と藤沢市、茅ヶ崎市、平塚市、大磯町、この首長さんたちが集まりまして、「湘南なぎさプラン」という、非常に広大な海岸の整備計画というものを作った。そのプランの一環として、神奈川県といっしょに事業を再整備しましょうと。それをいろいろと紆余曲折議論をしてきた中で、2004年のリニューアルというところにターゲットが定まった。なので、これはある意味、神奈川県の事業でもあるんですよ。ですから、当初の構想としては、新しい水族館の建て替えに伴って、神奈川県さんと藤沢市さんの出資で、「第3セクター方式で事業をしていきましょう」というところの絵姿ができ上がったのですが、ところがその時、全国の第3セクター方式によるリゾート施設の破綻が続々と。
内田
ダメになりましたよね。
堀
それで当時の県会議員の皆さまが一生懸命応援してくれて、何か神奈川県として新しい手法でできるものがあるんじゃないかというところで、当時PFIという手法が、イギリスのサッチャー政権で新たに注目を浴びて、日本にも導入できるんじゃないかということで、神奈川県さんの英断ですよ。PFIを日本で初めて導入して、PFIという手法だったら、ここの再生利用ができる、その代わりしっかりとしたコンソーシアムを是非組んでくださいというのが大きな経緯です。
内田
水族館がPFIというのは、日本で初めてですよね。そこにオリックスが関わったと。
堀
はい。宮内(現)シニアチェアマンにご相談申し上げたところ、それは面白いじゃないかと、素晴らしいコンソーシアムを作っていただいたと。
内田
この枠組みをしっかりと作ってくれたと。
堀
それで神奈川県との契約も成立して、晴れて建て替えてオープンすることができたということでございます。
内田
その時の、オープンの日の気持ちというのはどのような感じだったのですか?
堀
やはりうれしかったですね。当時オープニングセレモニーで、今でも覚えていますけれども、私の母である館長の、第一声が「ようやくできました」。これは感激しましたね。
2004年、無事にオープンを迎えた「新江ノ島水族館」。来館者数は179万人を数えるほど成功しました。しかし、初年度をピークにじわじわと来館者が減り、2012年には120万人台に。転機となったのは、開館10周年を迎えた2014年。前年より50万人近く上回る来場者を記録、劇的なV字回復を遂げました。
内田
グランドオープンを無事にされたのが2004年というところから、その後10年間は緩やかに数字が落ちていった。
堀
そうですね。経営指標というのは、事業のトレンドとしましては、大体こういった施設は開業初年度が最も高くて、そこからだんだん緩やかに減衰をしていく。その10年間の減衰をやはり止めてしまって、平準化して、さらにV字に持っていこうという考え方に8年目、9年目辺りから本気で取り組もうと。まずその1つは、職員の、社員の考え方を徹底して、一つの考え方に持っていこうということで、もう1回しっかりコンセプトというものを、「えのすいクレド」というものなんですけども。
内田
これを作った。
堀
「えのすい」らしさとは何か、そんな中での理念と信条と行動指針、これをしっかりと定めて、全員で共有して、その上でそれぞれの立場で「えのすい」らしさをどう皆さんが表現するかということに徹底的にこだわってやっていこう、それで10周年を目指していこうというところから復活になるようなきっかけにもなったし、それをひとつのブランディングとして構築して、未来永劫、全く変わらない考え方を踏襲していこうじゃないかと。
内田
2014年に10周年を迎え、いろいろなデータを見ていると、ここが「えのすい」にとってすごく重要な年であったのだろうと思うのですけども、堀さんが社長に正式に戻られた、そういうタイミングでもありましたよね。そこから「えのすい」がどんどん右肩上がりで入館者数も増えていったという数字が出ています。堀社長がものすごくリードをしていったという表れという風にも見ているのですけども。
堀
常々、節目節目のところでどういう方向性に進むべきなのかという大きなビジョンですとかメッセージというのは必ず伝えなければいけない。これは毎年必ずしっかりと自分の声、考え方に基づいて伝えていますし、それをさらにみんながブレイクダウンして、どう自分たちの表現で価値を正しく伝えていくかという連動が非常にうまく進んだじゃないかなと思います。
内田
この15年を振り返るとどんな言葉になりますか?
堀
あっという間でもあり、たかだか15年ですけれども波乱万丈でもあり、様々な経験をさせていただきましたし、一生懸命、みんなと一緒に汗をかいてやってきた自負はありますので、こうやってまた水族館が本当に多くのお客様に喜んでいただける施設になって、今は感極まるような状況ですね。
深海研究のパイオニアであるJAMSTEC(ジャムステック)と連携する新江ノ島水族館。2004年のオープン以来、積極的に深海生物の飼育や研究成果を公開してきました。2007年には世界初となる深海生物が生息する環境を再現した「化学合成生態系水槽」(特許取得)の展示を開始するなど、研究施設としての役割を強化しています。
内田
「えのすい」はエンターテイメントという側面とアカデミックの側面というところがあって、本格的な海洋研究機構と組んでいる。ここにどういう意義を感じていらっしゃるのですか?
堀
まず学校の教育では、海洋の環境を体系立てて教育するという仕組みはないじゃないですか。その役割は逆に水族館が担うべきだと思っていまして。とりわけ日本の場合は、経済的排他水域が世界で第6番目というものすごく広い海の、そこにどういうエネルギーがあって、というような未知なる部分があります。これをジャムステックさんがしっかりと国のミッションとして研究をしている。そこで連携をすることによって我々は一般のお客様に対してジャムステックさんが得た知見を、ジャムステックさんに代わってわかりやすい形で普及広報していく。ここはかなり学術的な部分になりますけれど、小さな子どもさんたちに科学的な興味をそういうものから持っていただいて、「将来自分もそういう研究をしていきたい」というきっかけ作りをお届けする上でも、すごく良い形での共同研究が成り立っていると思っています。
さかなへの情熱は多くの「世界一・世界初」の実績を生んでいます。特にクラゲの繁殖や飼育の種類は世界をリード。昭和天皇も携わられるなど、クラゲの生態系の研究は、世界でも類を見ない60年以上の歴史があります。
内田
「えのすい」はクラゲにものすごく力を入れているということで、今何種類ぐらいいるのですか?
堀
今現在、展示をしているクラゲは常時50種類。バックヤードも含めますと、もう少し種類がいるのですけども。「クラゲ展示で世界一を目指す」という強いこだわりのもと、クラゲのコーナーは、徹底的に癒されていただく「クラゲファンタジーホール」と、クラゲの生態をしっかりとお伝えする「クラゲサイエンス」の2つがあります。
内田
たくさんの種類、どのぐらいを目指しますか?
堀
今、バックヤードは「クラゲ生産室」と呼んでいまして、いろいろな種類のクラゲの、それこそ赤ちゃんから大人になるまでという成長過程をどんどん作っている。もし夢が実現できれば、この「クラゲ生産室」を倍ぐらいの大きさに拡張して、それこそ「クラゲ生産工場」と称して、更に多くの種類のクラゲを生産し、展示も広げて、また他の水族館さんとの交流で増やしていく、あるいは預かっていく。それによってお客様にいろいろな感度で受け取っていただけたらと思っています。
1988年にはバンドウイルカの繁殖に日本で初めて成功。その後世界初となる展示飼育下における5世を誕生させています。2014年には、湘南エリアの名物とも言えるシラスを世界で初めて繁殖・展示に成功。生き物の繁殖と研究にかける情熱。「えのすい」が守り続ける生き物への情熱とは。
内田
「えのすい」が他の水族館と違う独自性をあげると、とにかくクラゲ、イルカ、深海生物、シラス。そういうようなところでオリジナリティーがあるのですけれども、今後どのようにバリューアップ、成長していくのでしょうか?
堀
まず、私ども新江ノ島水族館がこの湘南海岸に立地している意味というものをしっかりと発信していく、ここがもう唯一不変のものなのですね、目の前に広がっている相模湾、そこから繋がっている太平洋、これは生物の宝庫と言われていますから、そこに生息する生態系がどういうものなのかというのは、まだまだ、全然お伝えし切れていない。これはもう無限の数があるわけなので、それを、どんどん進化して展示し続けていくことが非常に重要だと思っています。遊びながら学べる、いわゆる教育と娯楽が組み合わさったエデュテイメント性、これはもう永遠のテーマなので、更に「エデュテイメント型水族館」をどんどん進化させる、そういった水族館でありたいと思います。
それとあわせて、この地域、湘南・江ノ島には観光客が今、年間1800万人来ていただいて、お隣の鎌倉と箱根がそれぞれ二大観光地で年間2000万人来ているわけです。湘南・江ノ島も頑張って、お隣に追いつけ追い越せで2000万人までの底上げにしていこう、そこの母体を上げていけばおのずと水族館との相乗効果で。
内田
地域一体となって増やしていくという戦略。
堀
ですから、ミクロ的には、水族館をどうやってさらにコンテンツ強化していくかということと、マクロ的には地域をもっともっと活性化して、もっともっと湘南・江ノ島にいっぱいお客様に来ていただく。この2つをしっかりと、今後もこだわって続けていくことが、「えのすいの未来」に繋がっていくんじゃないかなと思います。
tvkのYouTube公式チャンネルの「見逃し配信」では取材VTRも含め、インタビュー全篇をご覧いただけます。(視聴無料です)
ゲスト
有限会社大平技研
代表取締役 大平貴之さん
【プロフィール】
1970年 川崎市出身・小学生の頃からプラネタリウムを自作
1991年 大学在学中に個人開発では前例のないレンズ投影式の「アストロライナー」を開発
1996年 ソニー入社
1998年 投影星数150万個の「MEGASTAR」 発表
2003年 ソニー退社
2005年 有限会社大平技研設立・代表取締役就任
2008年 世界最多投影星数(当時)2200万個の「SUPER MEGASTAR-II」発表
「宇宙を伝えるプラネタリウム」を特集。世界で光学式プラネタリウムのシェアを握るのは4社、そのうち3社が日本にある。横浜市にある大平技研は「世界で最も先進的なプラネタリウム投影機」としてギネス世界記録に認定されるなど、技術革新を続ける。そのルーツは大平貴之代表の自作プラネタリウムにあった。最新技術の紹介や、製作に挑む背景を探る。
川崎市にある「かわさき宙と緑の科学館」に導入された大平技研のプラネタリウム。世界中の科学館などに導入が進んでいます。
内田
私も川崎のプラネタリウムを見てきました。
大平
ありがとうございます。
内田
すごく懐かしくて、子どもの頃、本当にプラネタリウムが大好きだったことを思い出しました。進化しているというのが、すごく強烈だったのですけども、小さい頃から、それこそプラネタリウムを作ろうとしていた、実際に作ったという、このクリエイティビティというのはどこからきているのですか?
大平
子どもの頃から、ものを作るのが好きだったり、理科で実験とか研究をするのが好きだったりしたのですけども、そういう意味で、一つはプラネタリウムって、いろいろなことに挑戦できるんですね。プラネタリウムを作る過程で、例えば機械のこと、電気のこと、コンピュータソフトのこと、レンズのこと、天体のこと。機械を作るだけじゃなくて、それを今度は上映するとなると、映像を作ったり、ナレーションを作ったり、場合によっては自分の家でナレーションまで吹き込んだりとか、いろいろなことをやるので、そういう意味では飽きにくい。それともう一つ、プラネタリウムが良いのは、できたものを、専門家にしかわからないものでなくて、まさにご覧になったように老若男女に、みんなに訴求して楽しんでもらえる。音楽とかそういうことはできないし、僕の分野ではない。でも、それがものづくりであったり、研究開発だったり、そういったものを通じてあまねく世間の人々に、自分の作った作品を「どうだ」という風にプレゼンテーションして、そのレスポンスが返ってくる。それが僕にとって、とても魅力的だったのですね。
内田
「すごく宇宙が好きで」とか「星空が好きで」と言って「…プラネタリウム」となる人が多いと思うのですけども、大平さんの場合はすごく「ものづくり」というところに重きを置いているというか。
大平
「すごく星が好きなんじゃないか」と思われますし、もちろん好きだからやっているというのは確かにあります。多分、星も好きだけど、それを題材にして表現するというと、やはり「ものづくり」とか、そんなバランス配分なんでしょうね、僕の中で。
内田
星が好きだ」「宇宙が好きだ」というと「ロマンティスト」と言われると思うのですけども、私から見ると大平さんは、すごくリアリストのような、現実に即しているというか、そういうものの目線が鋭いというか、大事にしていらっしゃるとお見受けするのですけど。
大平
自分では、実はリアリストだと自覚している部分もあります。人から思われるような、「夢を実現して…」というのか。
内田
「夢を実現した人」みたいな?
大平
それで「子どもたちに夢を…」。そういうのはしっくりこないというか、それよりもやはり「現実の中でどう物事を捉えるか」みたいな。天文学も僕にとっては「現実」なんですよね。星空を見ると夢があるとか、現実の辛いことを忘れて星空を見て夢をみましょう、みたいに言いますけども。
内田
「癒される」とかって言いますよね。
大平
そうですね。それはそれでいいのですけど、でも、星空とか宇宙を突き詰めて考えると、そこに横たわっているのは、結構でっかい現実なんです。ただ私たちから見て、星空でブラックホールが何個あったり、あれがこうしているとしても、直接私たちには影響がないので、夢幻のように私たち捉えてしまうのですけど、星とか宇宙を知ることが僕ら自身を知ることに繋がって、結局僕らがこれからどうしていかなきゃいけないのか、そういうことにものすごく繋がると思う。宇宙ってしかもちょっと怖い現実がある、それをもっと見なければいけない時代がくるのだろうなと予想しています。やはり「天文」「世の中」という風に何かちょっと分かれてしまっていますよね。天文学の世界での現実というのを捉えているのですけど、それが僕らの社会とどういう風に繋がっているのかというのが、僕がやっていきたいテーマでもあるのです。
星空とともに様々な番組が投影される既存のプラネタリウムでは、星と映像が重なってしまうなどの課題がありましたが、最新機種「MEGASTAR-III FUSION」では、光学とデジタルの組み合わせ技術によって、これまでにない「星のある風景」の再現に成功。新しい投影方法によりプラネタリウムの可能性を広げています。
内田
「MEGASTAR」の特徴、大平さんがすごくこだわってものづくりをしたところというのは、やはりまずは「星の数」と言えるのですか?
大平
やはり目立つのは、まず真っ先にそこですね。星の数を従来のプラネタリウムよりも100倍ほど、多いものを作った。星の数ってわかりやすいじゃないですか。今まで1万個しか映らなかったのが100万個も映るようになりました、それで肉眼で見えない星を映して、それで今までのプラネタリウムでは体験できなかったような、夜空の奥行きを表現できるようになった。これは確かに優れているポイントだっただろうと思います。ただ、今はもう他のメーカーさんもそういうものを作っているので、ある意味、性能面、星の数だと「MEGASTAR」は1番じゃないですから。これは「SUPER MEGASTAR-II」といって2200万個ですが、今他のメーカーさんが出しているのは1億4000万個というものがあって、それもいろいろなところに入り始めていますね。
内田
そうすると「たくさん星を映しだす」ということは、これからは競争の要因ではなくなってくるということですか?
大平
もう現時点である程度、行き着くところまで行ったというところがあって、そればかりやっていてもしょうがない。それよりももっと違うデジタルとか、ただデジタルに映るというだけだったら他がやっている。そうではなくて、自分ならではの新しい発想で作ろうというのはあった。それを実現したのが「FUSION」で、「MEGASTAR」の次に僕が世の中に送り出した、新しいプラネタリウムの形で、僕の中ではそちらの方がホットですね。それがもたらしてくれる表現の幅というのはすごく気に入っているので、今も改良を重ねて粘り強く取り込んで、というのが今のフェーズです。
内田
大平さんがプラネタリウムをやっている本当の目的、どんどん機械が良くなっていくというのは面白いけども、でも本当にやりたいことは、これは手段で、伝えたいことは宇宙の広がり?
大平
地上では戦争があったり、環境問題があったり、いろいろな人間同士のいざこざが、豊洲がどうだ、オリンピックがどうだと、いろいろあるわけじゃないですか。でも人間社会で起きていることと、天文学、夜空で起きていることというのは本当は繋がっているので、それをセットにして、フォーカス的に考えて、宇宙にとって地球は小さいですけども、地球というのは我々にとっては一つしかないし、我々人間も一つの宇宙みたいな複雑な構造を持っているわけですから、逆に宇宙を考えることによって、僕らがどれだけ、尊いと言うと、ちょっと綺麗ごとになりますけども、大きなものであるかを認識することもできるわけで。そういうことを今まであまり考えなかったと思うのですけど、これから考えなければ、やっていけない時代がくるような気がするんですよね。
内田
そこの繋ぎ役として、大平さんの存在というのがいいかもしれませんね?
大平
その意識は、最近になってちょっと持つようになりましたね。
内田
顧客に対しての要望というか、もっとこういう風にプラネタリウムの運営をした方がいいんじゃないかとか、固定化されているものと新しいものにチャレンジしようとしているものというのが様々あるような気がするのですけども、その辺りはどのように見ているのですか?
大平
プラネタリウムの科学館とかですよね。やはり子供向けとか、理科教育という、一つの固定観念の中でやっている、そこはちょっともったいないなと思うことはよくあります。例えばうちのでも、他社さんのでもそうですけども、星が何千万個、場合によっては何億個も映るような投影機を入れているのに、その持ち味をちゃんと発揮できていないとか。最初にお話したみたいに、天文学の視点から見て、まず宇宙の広がりを伝えるというのが、プラネタリウムができる一番大きな役割だと思っている。役割というか効果ですね。「宇宙ではこういうことが起きている、その中で僕らは、全然かけ離れた世界じゃなくて、僕らもその中にいる」と。その中で「さあ俺たちどうするよ?」ということを問いかけるような場としてプラネタリウムは機能して欲しいと思います。
2016年には180度全方位に100万個の星が煌めく新たなプラネタリウム「MEGASTAR CLASS」を開発。小型・軽量で高精細な星空を凝縮、商業施設や公共空間への広がりが期待されています。変化する宇宙・星空の楽しみ方。大平技研が目指す宇宙との距離感とは。
内田
宇宙への投資ブームと言いますか、これからビジネスチャンスとして宇宙というものを捉えている会社なり国なりというのがすごく増えてきた。こういうものはどうご覧になっていますか?
大平
正直言うと、まだちょっとフワフワしていて。結構コンサバなので、僕の言っていることが正しいと信じないでいただきたいのですけど、やはりビジネスとしてやっていくには、まだまだ相当いろいろなハードルもあるだろうと思います。なんだかんだ言っても、宇宙に物を一つ送るのでも未だに大変だし、コンピューターの性能が進化するのはすごい勢いで進化しますけども、宇宙に物を運ぶためのロケットエンジンの技術は1960年代と今とでそんなに変わっていない。本質的には。もちろん徐々には進化していますけど、それは何かというと、ロケットエンジンに使う燃料だったり耐熱材料だったりというのは、物理的、物質的な限界というのがあって、それを超えるというのはそうそう簡単にいかない。そうすると、それを超える新しい全く違う原理の、例えば宇宙船を飛ばす原理とか、そういうものができれば、また話は変わるのでしょうけども、今のところそういうのが見通しがたっていなくて。それで「どうやってコストを下げようか」とか、これがビジネスとなって、どういう風にいくのか、一過性のブームとかフワフワとしたもので終わらないでできるのかな、という、まだちょっと僕は様子見しているようなところはあります。もちろん夢があっていいのですけど。
内田
そのリアリストの大平さんに、これからの大平技研どういう会社にしていきたいか、ご自身が何をやっていきたいのかということを改めて聞きたいのですけども。
大平
そうですね、これは本当わからないので。明日、何を考えついているか、わかりませんから。アメーバみたいなもので。
内田
そうですか。変わりますか、考えがコロコロと。
大平
考えも変わるでしょうし、基本的な考えというのはそんなに簡単には変わらないかもしれませんが、少なくともアイディアが、事業の内容は変わりますよね。それをどういう風に具体化していくかという方法は、もう変わると思います。今はプラネタリウムだけやっていますけども、10年後ぐらいに、もしかしたら金融をやっていないとも限らないし。まあやらないだろうな。なんだかんだ言って。
内田
ただ、プラネタリウムを製作するというところには留まらないんじゃないかな、というようにお見受けするのですけども。
大平
はい、プラネタリウムというものだけをやりたいとは思わないですね。ただ、今の僕の立ち位置からすると、やはりプラネタリウムとか宇宙をフックにして活動するというのが一番合理的だし、そうならざるを得ないところもある。そうするとやはり先ほどお話ししたような、宇宙の視点を啓蒙するというのが社会にとって必要なことだと思うので、まずはそれを、いろいろな場を選ばずに、科学館に限らず、個人宅から、病院から、結婚式場から、いろいろな場所で、プラネタリウムじゃない場所で星空を体験できるようなプラネタリウムを作ること。あとは半分夢みたいな話ですけど、もっと大きな、例えばディズニーランドの天井を丸ごと覆うような巨大ドームに星を映して、それでもっと星空を背景として体験できるようなものを作るとか。そういったことを体験する場、いろいろな場所に星や宇宙を体験できるようなスポットを作ったり、お手伝いをしたりというのが、とりあえず考えられることでしょうね。そういったことで事業が広がっていったりとか、常にいろんな状況に応じて、有機的に変化しながらやっていけばいいかなとは思いますね。
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横浜駅発“豪華クルーズ” THE ROYAL EXPRESS
東京急行電鉄・伊豆急行
ゲスト
株式会社キープ・ウィルダイニング
代表取締役 保志真人さん
【プロフィール】
1974年 横浜市出身
1992年 横浜隼人高校卒業
1993年 大手居酒屋チェーン入社
2003年 1号店「焼鳥 炎屋」オープン
2004年 株式会社キープ・ウィルダイニング設立
町田・相模原エリア、通称「マチサガ」エリアで飲食業を展開するキープウィルグループを特集。多くの飲食店で苦戦が続く中、「ローカルブランディング」を軸に店舗数を増やし、売り上げを伸ばしてきた経営戦略、また社員が現場でいきいきと働く店づくりなどについて、代表取締役・保志真人さんに伺います。
内田
保志さんは、なぜ飲食業を始めようと思ったのですか?
保志
アルバイトした居酒屋から始まったのですけど、たくさんのお客さんに褒めてもらったりとか、ビールをガッと持って走っていると、もう「生きてる!」っていう感覚。それでこの仕事が好きだなと思うようになりました。
内田
今、何店舗ですか?
保志
全部で30店舗になります。
内田
30店舗というのはすごいと思うのですけれども、1号店が東林間。なぜ最初に東林間だったのですか?
保志
お金がなかったからです。当初、やろうと思っていた場所は2~3,000万円くらいかかる話だったので、銀行とかに行ったのですが、貸してもらえず。皆から反対された場所だったですけど、まあお金がなかったので、そこしかないということで。
内田
選択肢がなかった、そこで最初の資金を投入したと?
保志
創業メンバーとトンカチとノコギリ持って、手作り満載で。ビールケースをひっくり返して、お座敷を作ったりとか。
内田
仲間が総出で作って。その1号店、商売はどうでしたか?
保志
おかげさまで、最初から良くてですね。
内田
何故、うまくいったと思いますか?
保志
やはりローカルのお店って、若者が行く店がなかった。大手のチェーン店か、お父さんお母さんでやっているようなお店さんばかりで、間を突くような、若者が行きたいお店がなかったというのが理由。
内田
そこからキープ・ウィルグループという流れになっていくのですけども、その1店舗目から、壮大な夢を持ってやっていたのですか?
保志
いえいえ、全然。やはりお金が欲しいっていうのもありましたし、休みも欲しい、自由な時間が欲しいという起業だったんですね。1店舗成功して、お金が入って、休みも取れるようになった時に、「これが欲しかったのかな」って、ちょっとわからなくなってしまって。
内田
そんなに満足しないと?
保志
そうですね。「これが欲しかったことなのかな」と、すごく疑問になって。振り返ったら、お店の中で必死になってやっている創業メンバーがいたので、「あ、じゃあもう、これ、このメンバーに1人1店舗ずつ持たせよう」みたいなところから多店舗化を開始したということですね。
1号店の成功をきっかけに、ハイペースで「マチサガ」エリアへ集中出店。1年に5店舗以上を出店・プロデュースしとこともありました。何故、他のエリアへ出店せず、「マチサガ」エリアにこだわったのか。その理由を伺いました。
保志
大体飲食店は、一つのブランドを当てて、それをいろいろな地域に出していくというのが、全国展開をしていくセオリーですけども、それをやることに意味を感じられなくて、何でそれをやるのか、よくわからなくなったのと、年商を追いかけ続けるということに疑問があったというか。
内田
それで「地域密着型」というところに、頭の中がシフトしていった?
保志
きっかけがありまして。都内でブライダルの話があったのですけど、その当時、うちの会社の年商10億で、そのブライダルの案件が1件で10億の案件だったんです。業容が2倍になるお話だったので、「これはやるしかない」という感じで。場所も素晴らしかったですし、モデルさんが撮影するような場所でしたし、「会社のイメージは間違いなく良くなる」ということだったのですけど、準備の過程で、何か喉に骨が刺さっているような、引っかかるものがちょっとありまして。「この町の人に成長させていただいたのに、なんで都内の人を喜ばせようとしているんだろう」というのが、一番に引っかかっていることだと思って。もう一つは、ドミナントでやってきたので、社員との距離がすごく近くやっていたのですね。都内でやるということになると、うちの社員たちとバラバラになると思ったのと、それからビジョンを共有できなくなるなと思ったというところの、この二つで引っかかっているというのがわかって、「もう止めよう」と。止めようと決めたらすごくスッキリしたというか。
内田
自分たちの地域に根ざして今、「マチサガ」という?
保志
はい。最近「ブソウ」って言い始めたのですけども。
内田
町田は東京ですよね?相模原は神奈川じゃないですか。そこを一体化して「マチサガ」という商圏。ここはどういうエリアとして認識しているのですか?
保志
僕がここから3つ目のローカル駅が実家なんですね。住んでいたからわかるのですけど、町田も相模原も関係ないというか、要は僕らにとって、この辺に住んでいる人にとって、「町田は首都」みたいな感覚があって。精神的ハードルもあるのですね、都内に行くのに。45分で新宿まで行けるのですけど、もう混み方が半端じゃない。都内に通じる道は全部混雑するんですよ。なので、このエリアで完結したいんですね、本当は。だけど満足いくお店がないということが出店の動機になっていたりします。
内田
商圏として見たときに、経営者として、「こういう場所だ」と言うとしたらどんな言葉になりますか?
保志
ここ最近まで人口は減っていなかったエリアですし、若い子がすごく多いので、活気のある町で。
内田
どういうお客さんに支持されている?
保志
20代の女性、30代の女性。
内田
こういう人たちが行きたい店がないから、作れば流行るに違いないという仮説があった?
保志
そうですね。僕たちの標語で、「ないものを創り、あるものを活かす」というテーマを持ってやっていまして。やはり自分たちが住んでいますので、何が足りていないかというのが明確にわかっている。僕らがこの町のユーザーなので、単純に「これ足りないよね」と言って、「じゃ作っちゃおう」みたいな、そういうノリなので。
内田
ここにないから?
保志
そうですね。あとは「欲しいな」という、自分が欲しいので作っていますね。
内田
なるほど、わかりやすい。
キープ・ウィルグループでは、神奈川を中心とした地場食材の移行を始めています。コストは決して安くはない中、「イート・ローカル」を打ち立て、現在の地場食材比率7%から50%を目指します。また、夜の食事では客単価を3〜4000円に設定。この価格設定が人気を集めている秘訣と保志社長は考えています。
内田
今は地元の食材に非常に注目しているということですけど。
保志
はい。日本全国からいろいろな食材を持ってきていたのですけど、「地元にないのかな」という風に思いまして、探したら「ほとんどのものがあるんだ」と。知らなかっただけで。「イート・ローカル」というのを今、推進していて、地元の旬のものを食べるのが一番自然なことなんじゃないかなと思っています。地場食の比率うちの会社でどれぐらい使っているのかというのを掲げて、それを今まだ7%ぐらいしかないんです。なので今後はこれを50%に引き上げていこうと。
内田
「50%を目指す」って、大変ですよね?
保志
大変ですね、相当大変です。
内田
そこはやっていきたいという思い?
保志
100%と言いたかったのですけど、さすがにそれはちょっと厳しそうなので、じゃ半分というのを掲げて、5年後ぐらいまでに達成したいと思って動いています。
内田
(客単価)3,000円から4,000円のゾーン、ここがすごく成功の大きな理由のひとつだと思うんですよね。
保志
大手さんが大体2,000円台で居酒屋とかやっていらっしゃる。そこから500円、1,000円支払ってでも、「もうちょっと良いサービス受けたいよね」「良い料理食べたいよね」というあたりを狙っていきたいというか。
内田
結構簡単におっしゃいますけど、そこは工夫が必要なんでしょうね。
保志
そうですね。僕らがやりたいゾーンというのは、「ちょっとした贅沢」。やはりアッパー過ぎるソーンに入ってしまうと買える人が減ってしまいますし、日常の豊かさに繋がらない。そんなにアッパーなことがやりたいわけではないですし、もっと大衆、全ての人が手に入るものの豊かさを追求したい。そのゾーンのお客様も、サービスをしている我々もすごくやりがいがあるんですね。価値を感じて来てくれている、ここのお店に行きたいって考えて来てくださるので、働いている人間も、しっかりそれをやったらお客様も反応してくれるので、やはりこのゾーンが僕らは好きというか。
内田
ピッタリきているわけですね
保志
そうですね、はい。
キープ・ウィルグループの価値を高めている理由の一つに「接客」があります。2009年、2010年には外食クオリティサービス大賞で2年連続グランプリ、2017年にはサービスの見える化を制度化した「おもてなし規格認証」を受賞。飲食業界では異例の1店舗あたり、7名近くの社員を配置することで、社員が先頭に立って質の高いサービスを提供します。
内田
いかに人を辞めさせない、いい人を採用するかというところで、経営者の方は皆悩んでいる。キープ・ウィルダイニングは、どういう戦略を持っていますか?
保志
近年、ブラック問題であったりとか、業界的にき損された部分もすごくあると思うのですが、事実そういう部分もあったのではないかと思っていまして、それを数年前から、改善に思い切って入り、労働時間是正ももちろんそうですし、それだけではなくて福利厚生の充実を、我々の企業規模ぐらいだと厳しいぐらいのレベルでやりまして。人件費も会社全体で7%から8%ぐらい増大するぐらい、利益を半分以下まで下げて断行しました。社員の労働時間を守ろうと思うと、アルバイトさんでは駄目で。学生アルバイトさんがメインですから、例えばテスト休み、それから就職活動といったときに一気に人がいなくなったりして。
内田
回らなくなると。
保志
結局アルバイトさんが休んでしまうと、社員がそれを補填しなければいけなくなってしまいますので、「じゃあもう、社員の数を増やさないと駄目だよね」ということで、一気に社員数を増やしました。
内田
人件費、固定費が膨れ上がるわけで、よくやりましたね。アルバイト中心だった頃のお店と、社員さんがほとんどであるというお店では、どう変わりましたか?
保志
こう言ったら何ですけど、やはり質が違うといいますか、今までアルバイトさんだと、キャリアが1回1回切れて、チームを作り直して、というのを続けていたので、社員でやっていくということで、どんどん良くなってきていると感じています。
内田
サービスの向上というところは、どんな工夫をされていますか?
保志
教育投資は、一般の企業より相当していると思います。人と人はコミュニケーションの量だと思うので、コミュニケーションの量をすごく増やしているというのは、他の企業より大分やっているところだと思います。例えば「進言会」といって、社員が会社に対して、「何かこうした方がいいんじゃないか」というのを出せる場があって、全ての部署が回答する。僕自身、他社に勤めているときに、「変えられない」ことがストレス、やるのが嫌なのではなくて、変えられないことの方がストレスだったので、変えられるようにしようという会があったりですとか。
内田
かなり出ますか?改善案というのは。
保志
そうですね、1回でかなり出ます。それに対して全部門が全部応えるので。
内田
ジャッジメントにスピードを持ってやるという。
保志
例えば「会が日曜日に集中しているから、家族持ちの自分にとっては辛い」みたいな意見があがると、「じゃあ、もう日曜日はやめよう」と、そういう話で改善になったりとか。やはり働く現場の環境がすごく大事だと思っているので。
内田
飲食店の離職率がすごく高いという中で、反対に低い理由というのは、一人一人としっかりとコミュニケーションを取っているというところ?
保志
何が一番しんどいか、社員が辞める時とか、何か問題起こる時とかがやはり一番しんどいので、辞める人が出る度に、会社は良くなっていっていると思う。同じような人を出したくないと思うので、もう1回、何がいけなかったのかというところ、それを改善策に取り入れるということを繰り返し、繰り返しやってきているだけと言えば、それだけですけども。
内田
結果がちゃんと「離職率の低さ」というところに出てきているわけですね。
保志
そうですね。犠牲になった子たちからすれば、そんな風には言えないと思うので、偉そうには言えないですけど、はい。
内田
保志さんにとって、「マチサガ」エリアだけだと、商圏として物足りなくなってきて、東京であるとか、世界であるとか、そういう思いになっていくと、勝手な想像ですけど、そこは違うのですか?
保志
広がっていくというよりも、もっと入っていくというか。
内田
もっと「マチサガ」に凝縮していく?
保志
もっと自分たちの町に入っていくというか。この場所に決めた時も、どちらかというと、「やらないこと」を決めていったと思うのですね。
内田
面白いですね。
保志
「ここからはやらない」とか、「もうこの地域でしかやらない」と決めていったことで、どんどん深くなっていっている。やはり僕がこの町に住んでいますし、家族も住んでいますし、友達も住んでいますし、仲間も住んでいますし、大事な人はみんなこの場所に住んでいるので、この町を豊かにすることが、イコール僕の周りの人の幸せになるので、この町の人の足りないことを、どんどん作っていこうと。
内田
そういう意味では、まだまだ足りないものがたくさんあって、やりようはいくらでもあるという、そういうお考えですね?
保志
はい。もっと地元を誇れる場所にしたいという思いが、「どこに住んでんの?」と言われて、「ブソウだよ」って言ったときに、「ああ、いいところに住んでるね!」って言われるようにすることの方が、ずっと意義がある。年商を上げ続ける戦いをするよりも、そこの方がよっぽど僕は価値があると思っているので、そういうことをやり続けたいなって、もうライフワークです。
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